19.二度目の結婚


 夫が湯浴みをしている音が聞こえる。

 間接照明だけのほのかな灯りのなか、杏里は浴衣一枚で、布団の上で待っている。


 きっと。夫も数年ぶりだろう。

 迷い道に入って、若い女の子に力を貸すことで男としての権威をプライドを保って、女二人が親しくしていることから孤独を癒やしていたはず。


 夫の言葉が杏里に蘇る。『三人一緒に分け合っても、誰かになにかが欠けている』。目を瞑ってその言葉を反芻する。

 やはり夫はひとり、妻はひとり。愛人は存在してはいけなかったのだ。


 杏里ちゃん。あなたと樹はちゃんと妻で夫だった。見届けたからね。


 美紗の言葉を胸に、杏里はこの夜を迎える。


 樹も浴衣を羽織って、部屋に入ってきた。

 そこで待っている妻を見て、彼も緊張を募らせた顔をした。

 まるで新婚初夜のように張り詰めている空気。

 数年間、どの男とも女とも触れ合わなかったふたりが、今夜本当の夫と妻として向き合う。


 だから前置きはいらない。照れも戸惑いも躊躇いも。


 いや違う。杏里はそう思いながら、目の前に座った夫へと向いて浴衣を肩から滑らせた。

 女の肌と乳房が露わになる。夫にも戸惑いはなかった。彼の大きな手が、そのまま杏里の肩に触れ、彼のくちびるがそっと近づいてくる。

 くちづけも何年ぶりか――。彼の熱い吐息が伝わってきた。

 目を瞑って、そのまま、これから交わすことへの『始まりの挨拶』をするキス、のはずだが。杏里は夫の唇が重なる前にそっと呟いた。


「あなたは、気がつかなかったと思うけれど。私ね、ずっとあなたに恋をしていましたよ」


 唇が触れそうなそこで、樹も止まった。


 彼の熱い吐息だけが、杏里の口元に触れている。


「恋人を作っていい――。そう言った日、ほんとうは嫌だと思っていた。でも、縛ることなど契約夫の俺には許されなかった。それでも俺の妻だと、俺以外はと」

「結婚してからずっと、あなただけでしたよ」


 樹の目が熱く潤んで揺れたのがわかる。

 ほんとうは妻として誰にも触れて欲しくなくて、でもそれを望んではいけない『契約夫』の強がりだった。だが杏里は望むとおりに、自分だけを貫いてくれたことへの嬉しさと申し訳なさが入り交じっていることが、妻の杏里にはわかる。


「一時でも、恋として燃え上がったら。もうあなたのそばにはいられなくなるから、心が孤独で軋むから。だから、私は恋を捨てて、あなたのそばにいることを選んだの。恋はなくても、愛はあってもいいでしょう。『妻』だから。そう思っていたの」


『でも』。杏里は、夫の唇が触れそうなそこで、囁く。


「でも。もう、私は遠慮しない。あなたに」


 杏里から唇を重ねた。だがすぐに夫もおなじ強さで愛してくれる。

 これまでは『妊娠をするため』の交渉だった。愛人に遠慮をして、優しく浅く、義務的に。キスも一瞬、ほんの少しの愛情表現だったと思う。


 今夜は違う。杏里から挑んだ。


 浴衣を取り払い、杏里から夫の首へと抱きついた。杏里から深く夫の唇を愛して吸う。まるで女が上から覆い被さるように抱きついてきても、樹も怯まず、杏里の身体を支えるように、その大きな手が強く抱き支えてくれる。夫の手がそのまま、妻の柔肌を狂おしく撫でていく。彼の唇が首元にいくつもの強いキスを連ねていく。夫の唇が肌を熱く愛してくれるのを感じながらも、杏里から男を求めるように手を伸ばした。そういう恥じらいもない、妻だからしていいことに今夜の杏里に躊躇いはない。


 繋がる手、硬く結ばれる指と指、重ねる肌と肌の間にはもう空気の隙間はなくて、火照った肌と肌が密着して離れない。

 どちらも躊躇いはなかった。そのまま結ばれた。夫と妻だから遠慮もない、心配もない。これは正しい交渉で行為で、愛しあい、だから。




 事後の優しい囁き合いなんてなかった。

 枯れていた根が綺麗な水を吸い上げて、木肌を通って潤って湿ってしっとりし、瑞々しく葉先までぴんと張っていく。渇きがなくなっていく。なのに、一気に蒸発させて、またしおれる。それほどの勢いで発散した。ふたり一緒に。


 真夜中過ぎにどちらも言葉を失って微睡んだから、どちらが先に眠ったのかさえわからなくなる。





 うっすらと目を開けると、眠っていた和室の障子が薄明るくなっていた。素肌のまま、杏里はおもむろに起き上がる。

 浴衣を羽織って、布団が敷かれていた部屋を出ると、客間はぼんやりと青白い夜明けの色になっていた。

 露天風呂の湯が流れる音がやさしく響いている。

 その音へと杏里は足を向け、そのまま脱衣所で浴衣をまた脱いで、湯の中にぼんやりと入った。

 夜明けの水面にうつる自分の顔を見て驚く。目の下に隈ができていて、やつれていたからだ。


「うそ……」


 やりすぎ。という言葉が頭に浮かんだ。

 身体はだるいし、あちこちひりひりしている。でも、なんでだろう。すごい満たされいてた。燃え尽きて、でも、ずうっと身体の奥にある芯にまだゆらゆらと炎が揺らめいている。二度と消えない炎だと杏里は思った。昨夜、夫が杏里のなかにつけた火だ。


「俺もいいか」


 杏里が目覚めて動いたからなのか、樹も露天風呂にやってきた。

 彼も羽織っているだけの浴衣をまた脱いで、裸で湯の中にはいってきた。

 そんな樹の顔もやつれていて、杏里は驚く。だが、彼も妻の顔を見て驚いている。


「すまない。手加減しなかった」

「いえ、樹さんもかなり、やつれているんだけど」


 彼も水面に映った自分の顔を見てハッとしていた。


「若くないんだなあ」

「そうですねえ。でも、これで、ほんとうの夫と妻ですね」

「そうだな。やっと……」


 ふたり肩を並べ、足を伸ばして、微笑みあいながら湯に浸かる。

 明けていく夜空を見ながら、しばらく一緒に身体の汗を流して温めた。


 この日もふたりは、ゆっくりと過ごして夕方チェックアウトをして、小樽の自宅に帰った。


 帰りの海辺の道で、向こうにある石狩海岸にぼんやりとした蜃気楼が浮かんでいた。

 小樽の春の知らせだ。

 大澤夫妻は、二度目の結婚をした。嘘偽りのない結婚を。




---🌸



 五月末、ライラックが咲くころ。夫妻はつつがなく、これまでどおりに家業を繁栄させるために邁進していた。

 長男の一颯は小学生になった。次男の一清もしっかりしたやんちゃな年中さんに。優吾叔父ちゃんは卒園式でも入学式でも号泣。甥っ子たちラブの生活を満喫している。

 ガラス工房では、今日も厳しい親方の指導の下、若い花南が技を極めていく。


 夫もまた凜々しいスリーピーススーツが似合う麗しい社長の姿で書斎にいる。

 その手元には愛機の『ライカ』。

 杏里が用事があって訪ねると、最近はすぐに表情を和らげて冷徹な社長の雰囲気を崩してしまう。


「なあ、次の休みなんだけれど。ライラックを撮影しに行こうと思うんだ。杏里も行けるだ……ろ、」


 夫が入ってきた杏里を一目見て、顔色を変えた。


「杏里? 大丈夫か。顔色がよくないようだが」


 愛機をすぐに手放し、デスクの上へ置くと、彼がすぐに立ち上がって入ってきた杏里のそばにきてくれる。

 杏里も仕事の途中で、いつものオーソドックスな黒いスーツ姿だったのだが、夫が家にいると優吾に聞いて戻って来たのだ。


「病院に行ってきたところで。あなたに相談が」


 一気に樹の表情が強ばる。


「なんだ。どこか悪かったのか。なにかの検査結果で再検査でも?」


 杏里もアラフォー。いろいろな検査をするように気遣ってきたのも確かだった。だが、そうじゃない。


「あの、いわゆる、二ヶ月……という診察結果で……」

「二ヶ月? 入院期間のことか? それとも、余命!?」

「八週目、だそうです」


 夫の表情が固まる。目を見開いている。つまり驚いているのだろう。


「え、ええ!? さ、三人目、ということか!」

「はい。えっと、心当たりありすぎて……」

「あ、あるけど。それって朝里の宿の時だけで……」

「ですから。あの夜のってことです」


 夫婦の営みが確立し続いているが、『覚えがある行為』はあの結婚記念日の温泉宿での夜のみだった。


「あなたとは、すぐにできるんだって忘れていました」

「たしかに。一颯も、一清も、すぐにできた」

「お父様、ご覚悟お願いいたします。この子の成人は、あなたの還暦ごろです。もちろん私もアラ還まで子育て決定ですが頑張りますから」


 茫然としてた樹だが、なにか思いついたようにハッと我に返ると、デスクに手放した愛機をつかみ取った。

 ライカのレンズをいきなり杏里に向けて、シャッターを押した。


「ようし。撮るぞ。生まれてくる子の成長を撮りまくる。長男、次男とともに撮りまくる。ママの写真もいっぱいな」

「ほどほどにしてくださいね」


 普段は威厳ある社長さんなのに。最近はプライベートになると、いまこそ少年時代を取り戻せとばかりに、無邪気な面も見せるようになった夫。

 カメラに夢中で、息子たちと一緒にはしゃいで。でも、優しい夫として杏里を抱き寄せてくれる。


「三男かな、長女かな。楽しみだ」


 お腹が大きなママも絶対に撮影するぞと、大張きりで笑ってしまった。

 この後、息子たちも驚き、優吾も驚き、また『嬉しい、楽しみ』の大騒ぎに。いまは元の大澤家でお手伝いさんと悠々自適の独り暮らし満喫中のお祖母ちゃんもお祝いに呼んでみる。

『今度は女の子がいいわ』と、姑も喜びいっぱいにすっ飛んできた。


 大澤家は今日も和やかに賑やかだ。


 義母の願いが叶ったのか。

 翌年、大澤家に長女が誕生した。


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