18.契約終了


 蝦夷富士えぞふじと呼ばれる『羊蹄山ようていざん』。雪解けが進んでも、まだ真っ白な雪を冠雪している姿は富士山そっくり。その山が車窓に流れる道を、夫の車が走行する。


 今日の夫はラフではなくカジュアル寄りのビジネススタイルで、水色のギンガムチェックのシャツにグレーのスラックス、でもジャケットはソフトなニットジャケットで、レストランで食事をすることも意識したきちんとしたお洒落していた。

 杏里もパンツスタイルだが、上質な素材できちんと系でコーディネートをしてみた。

 雪がまだところどころ残っている峠道だったが、蕗の薹がだいぶ伸びた姿になっている。もう少しすると大きな蕗の葉になりそうだった。


 窓辺に羊蹄山が雄大に見えるレストランに到着。

 喜茂別きもべつ地方、ニセコ地方、羊蹄山の麓で獲れる野菜を中心としたコース料理がメインだという新鋭のレストラン。

 ログハウス造りのその店の中も落ち着いていて、自然の木々に囲まている景色が見えるテーブルに案内された。


 なんとなく。杏里は落ち着かない。

 結婚記念日当日ではないが、結婚記念日だからと近い休日にふたりきりででかけるだなんて。初めてだからだ。

 しかも、いつもとちょっと違う大人の男のお洒落を選んでこの日を迎えてくれた夫のその姿勢も初めてで、まるで初デートのようで妙な緊張感がある。

 それでも樹が杏里の目の前で微笑んでくれる。


「俺は運転があるから飲めないけれど、杏里はワインにシャンパンを選んでいいからな」

「ありがとう。そうさせてもらいます」


 夫の言葉に甘えさせてもらうことも増えた。

 そして料理が運ばれてくる前にと、彼が脇に持っていた鞄からリボンがかかった箱を取り出し、テーブルに差し出してくれる。


「今年も一年間、大澤のために貢献してくれてありがとう。子供達の母親としてもお疲れ様でした」


 これは結婚記念日に夫がいつも言ってくれる言葉で、プレゼントも毎年のことだった。

 だいたいが時計やブレスレット、仕事でつけられそうなネックレスにピアスと貴金属が多い。

 対して杏里も準備していたものをテーブルに置いて差し出す。


「樹さんも。大澤を守るための社長としてのお務め、今年もお疲れ様でした。そして私たちの家を守ってくださって感謝しております」


 杏里の場合はネクタイ、時計、靴などのメンズ用品が多い。

 今年はカフスボタンを選んだ。

 いつもは彼の書斎を訪ねて簡単に手渡していた。気持ちはあるのに事務的なかんじだった。でも彼も贈ったものは愛用する姿はきちんと見せてくれていた。杏里も仕事にでかけるときに愛用していた。

 でも、こうして改まるようなテーブルを挟んでギフトの交換をするのは妙な気分になった。

 しかも夫と妻が愛情を贈り合う気持ちよりかは、パートナーとして信頼をしてきた感謝が優先されていたと思う。去年まで。

 今年もおなじなのに、春の木漏れ日がおりてくるテーブルには、よそよそしさが漂っていた。


 それでも、ふたりはそれぞれの贈り物を受け取って、中身をその場で開けてみる。


 杏里には『指輪』だった。

 珍しいなと思った。杏里はあまり指輪を好んでつけない。仕事をしているため、人の目に触れやすい指先は華美にしないよう努めていたからだ。だから目立たないブレスレットやネックレスにペンダントを、樹が選んできてくれたはず。

 『指輪』。そこに、樹の気持ちがなんであるか、杏里もうっすらと感じ取った。


 プレゼントの確認をしあう夫妻を見届けたからなのか、ホールスタッフがドリンクのサーブに来てくれる。

 そこからは、ゆっくりとした食事の時間が流れる。


 アミューズから始まる野菜中心のコース料理は、目も舌も楽しませてくれた。樹との会話もいつもどおり和やかに。


 仕事の話も交えながらは、彼と杏里らしいスタイルかもしれなかった。


「素敵なお店ね。今度はお姑様と優吾君、子供たちも一緒にまた来たいわね」

「そのつもりだよ。でも、まず杏里と来たかったんだ」

「いつの間に探していたのかしら。お仕事も忙しいはずなのに」

 ちょっとからかうように杏里は笑ってみた。

「そりゃ……。飲食業を営むかぎりリサーチは必要だろう。……じゃないだろ。杏里と今日の食事をどうしようかずっと考えていたからだよ」

「ふふ。私のために、ありがとうございます」

「疑ってるな? ほんとうに、今日のために探したんだからな」

「いえいえ。信じています。あなたも、もう花南さんに怒られたくないでしょう」


 花南と言うだけで、最近の樹はびくっと気持ちが正されてしまうようで、杏里も殺し文句に使わせてもらうことが多くなってしまった。


 夫婦としての軽やかな会話で雰囲気も馴染んでいくので、杏里も楽しい時間を過ごした。


 最後、お洒落なデセールが出てきてから、雰囲気が変わっていく。

 デミタスカップのコーヒーが手元にきてから、樹が窓辺の木々を遠くに見つめて黙り込んだ。

 杏里も彼が様子を変えたことに気がつく。


「こんな日だけれど。腹を割って話していいかな」


 こんな日だから。去年とはもう違うから話してほしいと杏里も思うから頷いた。

 きっとこれまでのことだろう。美紗が去ってから、そこについて話合ってはいない。ここを流して『夫婦』としていられるのか? それは杏里もずっと気にしていた。だから、こんな日だから腹をくくる。


「俺と美紗を好きなままに生かしてくれて、ありがとう。美紗が言ったとおり、誰よりも杏里に感謝をしている。どうしても離れられない彼女と俺の関係を壊さずに、気が済むまで、その終わりを迎える果てまでとことんつきあってくれたと思っている」


「それは契約でしたでしょう。私は私で、実家から遠ざかって、父の手も届かないところに逃げたいという目的があって、樹さんはその意図を汲み取って手を尽くしてくれたでしょう。優吾君を連れてきてくれて、仕事に復帰できる手助けも整えてくれたもの。あなたの見立て通り、お姑さんとの関係も良好で、申し分がない義実家との日々はほんとうにしあわせでしたから」


「そう感じてくれているなら、俺も救われる。俺と美紗と杏里、三人の利害が一致したから始まった関係だとしても、やはり三人で一生はあり得なかった。三人で分け合っても、誰かになにかが欠ける。いまは、美紗が去って気がついたことがある」


 ここ一、二ヶ月。樹はとても穏やかだった。そう『不惑を迎える男』と呼ぶに相応しい、なににも揺るがない芯がある落ち着きを垣間見せる。

 その男が見つけたことはなんだろうかと、杏里も樹を見つめてその答えを待つ。


「最初から美紗は、杏里に俺を渡す心積もりだったんじゃないかと……」


 杏里の心臓がどくりと大きくうごめいた。急速な衝撃が襲ってきたと同時に、なんとなくひっかかってはすぐに消えていた『心当たり』ある場面が一気に流れていく。


『愛する彼を預ける気持ちを察してください』

 和室の畳の上で正座で深々と頭を下げていた美紗。


『美紗が、あなたが了承したらそうしろと……。結婚してからでは遅いからと』

 初めての夜、最愛の男を覚悟して送り出しただろう美紗。


『愛人としての立場に異存はない』

 最愛の男が契約した妻と入籍をするとき。姑を目の前にして愛人の立場を誓った彼女の毅然とした美しさ――。


『私はもう恋に振り回されるような若い娘ではない。自分が決めたことだから遠慮はいらない』

 長男の一颯に兄弟も必要だろうと、夫をもう一度、杏里へと預けようとした決意。

 この決意を最後に、彼女も男女の営みから身を引いた。


「俺が美紗と別れられないから、だったら自分から、美紗から離れる準備を少しずつしていたんだと思う。気がついていたんじゃないだろうか。契約といいながら、十代の頃から長く愛しあってきた自分とは『別の好意を抱く女性ができたのだ』と……。俺だって、契約とはいえ、妻に迎えるならやはり相性がいい、妻にとしっくりした女性でなくては結婚なんてしない。美紗が『認める』と言いつつも、『認めたから、私との関係はもうこれから終わっていくのよ』と心に決めていたんだと思う……」


 そこから樹が様子を変えていく。美紗は少しずつ彼から離れていく。ついには身体の関係がなくなる。

 一気に離れられなかったのも、彼女の恋情か。愛しているから、ずっと恋していたから。それに彼女が頼れるのは樹だけだった。生きる力も持っていなかった。いきなりは無理……。でも時間をかけて、この不自然な関係は終わらせなくてはならない。最初からその覚悟をしていたと?


 そんなことを何も感じずに、彼女と友情を育んで『この関係も悪くはない。これは私たちだからこそできること』と杏里は思い込んでいたのだ。


「そんな……。私、なにも感じないで、彼女に、甘えてばかり、だった……?」


 急に心を乱し始めた杏里に気がついた樹が顔色を変え、姿勢を正し、テーブルの上で震えている杏里の手をすぐに握ってくれる。


「お願いだ。自分を責めないでくれ。責めるなら『契約を実行した』俺を。美紗には言われている。杏里ちゃんとも別れるのは辛いから、いきなり告げて別れる。あの日の美紗の言葉どおりだ。杏里に感謝していると強く伝え続けてほしい。ずっと俺のそばで療養生活として、そのままずるずるとそばにいるだけの生活に甘んじていたけれど、女性として働き続ける杏里に憧れていた。自分は『愛した男性のお嫁さんになる』ことばかり考えていたけれど、社会で生きる女性としての姿を教えてくれたのは杏里だと。女同士の楽しい時間を過ごせたのも杏里だけ。可愛い子供たちとの楽しい時間も杏里が許してくれたからだと。私の夢を詰め込んだようなお店を持たせてくれて働く楽しみを与えてくれたのも杏里だったと。十代のころから俺と一緒に縛られていた生い立ちの呪縛から解き放ってくれたのは、杏里だった。絶対に杏里が気に病むようなことがないように頼むと――」


「……でも、すべて、美紗さんが……」

「最初に、杏里の『恋』を捨てさせたのは、俺と美紗だ。俺たちが『恋』を失うのは当然の報いだ。終わったんだよ。俺たちの関係は、約束も、契約も――」

「違う。私が最初から『恋』は要らなかったの。だから契約できたんでしょう」

「だったら、もう、その契約も終わりだ。杏里は自由だ」


 だから、今日なの?

 結婚記念日を選んで、こうして向き合ってくれている?


「だから杏里。ほんとうに、自分の恋を望むなら。俺は離婚の覚悟もできている。まだ女性として恋をすることができると思う」

「ひ、ひどい……」

「離婚するなら『ひどい』と思ってくれるのか。だったら言わせてくれ。また俺との結婚生活を続けてほしいと――」


 だから『指輪』。これは樹からの再プロポーズ?

 まさか、そんな決意を秘めてこの日を準備してくれていたのかと、ちょっと距離を縮める程度の休暇だと思っていた杏里だったから、茫然として夫を見つめた。


 そのまま杏里の手を握りしめ、樹は続ける。


「俺は、杏里のことだって女性として見ていた。子供たちの母親なのだから。契約といいながら、『その時』は杏里を妻として母として女として愛した。……美紗が去ったから、杏里ひとりだけになったから、そう言えるんだろうと言われればそれまでだが。杏里に届かなくても、今日はそう言わせてくれ」


 杏里だって。『限定的な関係』と割り切っていたが、その時の樹は、ほんとうに杏里を大事に、そして優しく愛してくれた。

 それがあったからこそ。妻を続けてこられた。そのほんのちょっとの熱愛を身体に宿して保ち続けてきたから『女』として生きていけた。彼のその愛があったから『男』として、ときめいてみつめることができていた。

 でも契約妻だから、その想いは持ったら沈めてきた。奥底に深く遠く小さく砕いて。見えなくなるまで隠した。


 テーブルの上で握ってくれている彼の手が、杏里の手の上で汗ばんでいるのがわかる。

 若い時から威風堂々、余裕ある美麗な若社長だった彼。その時に契約をかわすように受けたプロポーズとは違う。

 普段着の男が決死の覚悟で、汗を滲ませて、杏里という女に挑んでくれているのだ。


 だから。杏里もその手の上に、自分の手を重ねた。


「指輪、つけてくれますよね」


 一粒だけ。大きな涙の粒が杏里の目の端から落ちていく。

 樹の緊張で強ばった表情に、笑みが広がった。


「もちろん。……ありがとう。いままで以上に、大事にする」

「花南さんに怒られますもんね」

「だから、なんでここで言うんだよ。もう……」


 杏里の照れ隠しだったのに、樹も一気に肩の力が抜けたようで笑い出していた。

 ちょっと恥ずかしいけれど、デセールを食べ終わる前のテーブルで、彼が杏里の指にリングを通してくれる。

 プラチナのリングに、ダイヤがいくつか埋め込まれているシンプルなものだった。でもこれなら仕事中でもつけていられそう。このまま愛用できそうで、杏里の心にも喜びが広がっていく。


 店を出て行くと、彼が杏里の腰を抱き寄せてきた。


「実は、朝里あさりの温泉宿も予約しているんだ。今夜、どうかな。優吾もわかっているから」


 戸惑う必要などもうない。杏里はそっと頷いて了承した。




 ニセコから小樽郊外にある朝里温泉へ。

 緑に囲まれた庭園のなかにある静かな一軒宿。

 このあたりでは有名な高級旅館だった。


 樹のことなので、女性が喜びそうな準備も完璧で、また豪華な夕食に、ゆったりとした露天風呂付きの最高の部屋を予約してくれていた。


 心の隔たりが取れたから、また夜まで夫婦でゆっくり『結婚記念日』の休暇でくつろいだ。


 だが夜が更ければ緊張が高まってくる。


 だって。何年ぶりだろうか。夫とその営みを交わす夜は。

 しかも、これから長い夫婦の歩みを誓う本当の契りの夜を迎えるのだ。

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