17.心に春風


 いちばん雪深い季節を乗り越え、小樽の雪解けが始まる。

 あれから、夫が毎日帰ってきて、毎晩一緒に過ごす生活が始まった。

 樹にも変化が起きた。どうしたことか、花南に写真を撮られてから、彼もカメラに興味を持ち始めたのだ。


 花南が不意打ちで撮った夫の顔を知りたくて、ほんとうに花南から写真のデータを譲ってもらったのだ。しかも花南は丁寧に高画質でプリント、三枚の写真も用意してくれていた。


 その写真を見て……。杏里は驚かされる。

 ほんとうに夫が申し訳ない気弱な顔をして写っている。そんな夫の顔なのに、杏里はどきりと胸がときめいて熱くなったのだ。

 一枚目、情けない男の姿のはずなのに。なんで愛おしく見えるのか。

 二枚目、花南に最悪と言われ反省している顔にも笑みがこぼれる。心が和む温かさを覚えた。

 最後の三枚目で杏里は泣いた。スーツを着ている時のように麗しいわけではない普段着の夫、家を飛び出して事務室で眠って髪も服もしわくちゃになった妻、そんなしゃんとしない男女が並んでいるのに。何年も一緒に連れ添った夫と妻だとわかる姿に見えたからだ。


 夫にもその写真を見せると、彼も感じ入るものがあったのか『俺もこの写真が欲しい』と言いだした。再び花南が三枚用意してくれ、今度はまた夫を牽制するためか『反省集』とか言って、フォトフレームにまとめて入れて持ってきてくれたのだ。


 親方に『社長に失礼だろ』と怒られていたが、杏里には心強い味方になってくれたことがわかったし、樹に関してはもう花南には頭があがらないみたいで『反省のために自宅のデスクに飾っておきます』と従う始末。またそこで、親方と杏里は笑いに誘われていた。花南だけがひとり生真面目な顔で『反省してくださいね』と樹を睨んでいた。


 だが夫はそれをほんとうに自宅書斎のデスクに飾って、いまはそんな自分を慈しむように微笑みながら見つめている時がある。

『カメラって不思議なんだな』とかなり興味をそそられたようだった。



 そのせいで。杏里がガラス工房に顔を出すと、スーツ姿の夫がお茶を飲んで休憩している姿を見かけるようになった。


「樹さん。また来ていたの」

「うん。ライカで撮った写真を見てもらいたくて来てしまったんだ。花南ちゃんの写真も見せろ見せろと頼んで、今日やっと、写真集を見せてくれるっていうからさ」

「また……。彼女も業務中なんだから邪魔をしないでください」

「でも、差し入れは持ってきてあげたんだぞ。温かい鯛焼きを買ってきてあげたら、さっき喜んで咥えて工場こうばに行っちゃったよ。『お魚咥えたどら猫かよ』と笑ってやったら、またツンとされちゃってさ」


 花南も樹に慣れてきたのか、つんとしながらも夫の差し入れは喜んで受け取って兄弟子たちと分け合って楽しんでいるようだった。

 樹もだった。花南をちょっとからかいつつも、気負いしない兄貴のような顔をして親しげにしている。子犬ちゃんたちにかっこつけていた社長さんという雰囲気とはまた異なっていた。お土産も『鯛焼き』だなんて、気取らないものを選んで気楽に接している。だから杏里も大目に見ていた。


 しつこい夫の差し入れ攻撃に呆れた花南が勧めたカメラは『ライカ』だった。夫もその気になって、すぐに探しに行ったようだった。


 実家が資産家同士だから気負いもない、花南のお嬢様としての勝ち気な気質を、樹はとても気に入ったようだ。女性としてなんて一切見ていない。それこそ『気を抜いたらやり返される生意気な妹』ができて楽しんでいるのがわかる。


 杏里もだった。花南が遠慮なく夫をいなしていると笑ってるし、夫がかっこつけないで花南の生意気さをおおらかに受け入れて『花南ちゃんには敵わないなあ』とあっさり負けている姿も、楽しく眺めている。


 夫が、とても『素直に過ごしている』とわかるようになった。

 これが本当の『樹』という男性の姿と笑顔なんだと。


 その夫が、花南がいままで撮影したの写真ファイル集を楽しそうに眺めている。

 杏里も気になって、ソファーに座っている夫の隣へと腰をかけて覗いてみた。


 明るいアクアマリン色の海が白浜に広がっている写真が続いている。

 日付は一、二年前のもので、『豊浦、父の部屋から』と黒ペンで添え書きがしてあった。


「実家が経営しているリゾートホテルの白浜だなこれ。社長室からということかな」

「WEBサイトでも、とても綺麗な海の写真ばかりだったものね。ほんとうに綺麗。北海道にはない色ね」

「いいな。いつか子供たちと行ってみたいな。遠浅で安心して泳げるし、その浅瀬にたまにイルカが来ることもあるそうだ」

「ほんとうね。楽しそう」


 そんな家族として、夫と妻としての会話も自然にできるようになっていた。彼がそばにいても、彼も杏里がそばに寄ってきても、どちらもなんとも思わない。それでもまだ、薄い空気の壁がある。未だに男と女の営みは成立していない。


 アクアマリン色の海が続いた写真のページをめくると、次は花々の写真。今度は海ではなかった。どこかの庭の写真だった。

 そこにマグノリア、木蓮が優美に咲き誇る写真が一枚あった。これが彼女のあの創作の源か。さらに様々な花の写真を追っていると、着物の女性が花を生けている後ろ姿があった。顔はわからなかったが厳格で品の良い年配女性が、綺麗な手つきで剣山に花を生けている。生け終わった花の姿も撮影されていた。


「きっとお母様ね。やはり古くからあるお家の奥様ってかんじね」

「うん。でも娘を自由に送り出す、見送る親の強い気持ちもお持ちなんだろうな。見かけじゃない、真ん中にしっかりした芯がある。着飾っても着飾らなくても、なにが美しく強いのかを教えられるお人なんだろうな」

「そうね。私も息子たちにそうしてあげられる母親でありたいかな」


 そこで夫が『ぷ』と小さく笑いをこぼした。杏里は首を傾げる。


「いやいや。花南ちゃんみたいに、気が強いのもな」

「あら、いいじゃない。あれぐらい強くなければ、社会の荒波に負けてしまいますわよ。特に女性ならばあれぐらいは……」


 でも杏里もちょっと笑いたくなる。また花南が気高く胸を張って、子犬ちゃん拾いをしていた夫を手酷く叩き落とした時のことを思い出したのだ。あれほどの女の子はなかなかいない。

 でも夫もあの時のことは既に『弱み』になって気にしているので、杏里はそこで言葉を止める。


「ん、これは……」


 夫が眺める花南の写真ファイルは最終ページに辿り着いていた。

 最後は一枚しか写真が保管されていなかった。

 小さな男の子を青い海の渚でだっこしている黒髪の男性だった。自分たちよりもう少し若い大人の男性。

 男の子が笑って、カメラを構えているだろう彼女に向かって小さな手を伸ばしている。口元が『かなちゃん』とでも言っていそうで。そんな無邪気な男の子を、黒髪の男性が愛おしそうに見つめて微笑んでいる。


 樹も気がつき、杏里も。でも、何故かふたりはそこで黙り込んだ。


「義兄さんかな。じゃあ、この子は姉が遺した……」


 あれから副社長を務めているという倉重の義兄から『厨房の料理人が気に入ったようなので、まとめて注文をしたい』との大口注文をもらっていた。

 小樽に来るまでは、豊浦の実家で母親とこの義兄と一緒に子育てを手伝っていたという花南。その時に撮ったのだろうか。

 男の子は花南に懐いているようで、義兄も奥様を亡くされただろうが、穏やかな笑みを浮かべて男の子をだっこしている。そこにはしあわせな空気が漂っていた。


 でも。彼女はこれを置いて、ひとり小樽にやってきた。こんな煌めく日々があっただろうに、どんな気持ちで置いてきた?

 大澤夫妻は、その写真一枚から、そんなことまで思いついてしまったのだ。夫と確認しあわずとも、彼がその写真を切なそうに見つめていたからわかる。


「花南にも、なにかあったんだろうな。ひとりでこんな遠くに来るぐらいだから」

「そうね……。だからこそ、ここを居場所にしておいてあげないと」

「でも、知らないふりをしておこう。だが邪魔にならないよう、そっと見守ってあげよう」

「そのつもりです」


 夫はもう目に見えて権威を振りかざすような手助けをしようとはしない。若い子を支えるとは、金銭がいちばん役立つケースも確かにあるが、そうではない気持ちが若い子を助けることもあるだろう。

 樹はそんな大人のおじ様に落ち着いていた。


「やっぱり写真は凄いな。花南が凄いのか? 彼女だからこんな写真が撮れるのかな。不思議だ」


 写真一枚から、彼女がどうして小樽に来たのか。ふと知ってしまう。心を暴かれてしまう。樹もカメラと写真のそんな魅力に取り憑かれているのがわかる。


 でも杏里はそんな樹を微笑ましく眺めている。

 ライカの種類も花南に『聞くより自分で用途を調べたほうが、男性はすっごくこだわりをもって楽しく揃えられると思いますよ』と突き放されていた。たが、そのとおりになってきているようで、樹の部屋にはもう既にいくつかのレンズが揃えられていた。

 まだ拙い手つきで、まずは息子たちを撮影している。そんな息子たちを沢山撮りたいことと、いろいろな景色を撮りたいからと、休日も家族でドライブに行くことが増えた。


 良い趣味に出会えたのだと思う。愛にばかり向き合っていた日々から、優しくゆっくりと流れていく父親としての日々に変わって、落ち着いて歩み始めている。

 杏里も同じ。契約妻だからなんて縛りはまずは横に置いて、子供たちにとっての『パパとママ』である日々を心がけている。


 そしてそれは、とても優しく柔らかな毎日だった。

 だから今日だって。本当はおたがいに仕事中のはずなのに、こうして気兼ねなく寄り添って写真を眺めていたのだ。

 それすらも、杏里の心には春風が吹いているような暖かさを覚えている。


 夫妻で和やかに寄り添っていたのに。急に夫が、樹が、ちょっと緊張した横顔に固まって、唐突に杏里に提案してきた。


「結婚記念日がもうすぐだろう。子供たちは優吾に預けて、ふたりでゆっくり、ニセコにあるフレンチでもどうかな。予約しておくよ」


 久しぶりに杏里は彼の隣で硬直した。契約妻でいるときの、彼に対して一線引いている緊張感を日々装備していた気構えが蘇ってくる。

 でも、いまそれを『取り払ってくれないか』と夫に申し込まれているのだと気がついた。


 結婚記念日か。いままでは、感謝を伝えるためだけに贈り物をしていただけだった。ふたりきりで祝ったことなどない。

 でも杏里は静かに目を瞑って『はい』と答えていた。

 妻であることから、もう逃げたくないから。

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