第9話
初めて半人魚を捌いてから一年程で、その役目を父親から完全に引き継いだ。父親は暫く崇正の仕事ぶりを見てから引退した。崇正は料理長になった。半人魚を捌くことはすぐに当たり前の行為になった。崇正は半人魚を捌いていることをアサにも、妻にも言わない。もちろん子供にも言わない。生活はきれいに三つに分断されていて、その中を崇正が泳いでいた。大切なものを守るために抱える秘密は、崇正一人のものだった。
長男が十二歳になったとき、その均衡を壊しかねないしきたりの行動をした。崇正が十二歳だったときと全く同じように、半人魚の刺身を食べさせた。長男がどんな人生を描いているのか、歩むのか、全然分からなかった。だが、そのどこかの段階で跡取りとして料理人になる道を歩まさせる。崇正のときは夢を追わせる代わりに敗れたら跡を継がせると言う簡単な形式だった。今のところ長男に人生を懸ける夢があるようには思えない。半人魚を食べさせた以上、必ず続きを引き継がせなければならない。崇正は刺身が長男の喉を通るのを見て、覚悟を決めた。
アサはずっと美しかった。妻は歳と共に中年になり、老いの影が忍び寄るようになった。崇正は妻と一緒に年を取った。少しずつ肉体はアサのそれから離れたものになろうとしていた。だが、心はずっと変わらなかった。そもそもそこに年齢のことが入り込む余地はなかった。アサは七百歳で、崇正は十八歳だった。アサの部屋で、二人はずっと二人だった。
長男も次男も自分の仕事を見付けて働き出した。どこかのタイミングで呼び戻さなければいけないと思いながら、崇正はそのままにしていた。父親は何も口を出さなかった。毎週、アサのところに行く。
ベッドからは海が見える。海には魚がいて、プールにまで入って来る。魚はだが、当たり前のように海に戻って行く。魚が見えた訳ではない、崇正の頭の中で魚がやって来て、いなくなった。
「アサ、あのさ」
二人はセックスの後、横並びに寝ていた。火照りがまだおさまっていない。崇正は天井を見たままアサを呼んだ。
「ん?」
アサは崇正の顔を覗く。
「ここから逃げようと思ったことは、ないの?」
発した問いが自らにも返って来たが、崇正はそれを脇に置いた。
「ないよ」
「逃げられないから?」
アサは首を振る。振って、そっと秘密を打ち明けるように微笑む。
「逃げようと思えばいつでも海に逃げられるよ」
「本当に?」
「ずいぶん前に柵に穴が開いたんだ。嵐の日に」
崇正は上半身を起こして柵を見る。だが、見える範囲には穴はない。だがアサがあると言うならあるのだろう。
「でも逃げないんだ」
「昔は『こんなもんだ』と思ってたからね。今は違うけど」
アサは暖かい秘密を頬袋に入れたみたいに笑う。崇正はそれを見て、全く同じ顔をして笑う。笑ってから急にさっき脇に置いた問いが胸の中央に戻って来て、僕はどうしたいのだろう、これまで何度も自問自答して来た問いの答えがしきたりを守る以外でもいいのかも知れないと初めて思った。アサがここにいるのは閉じ込められているからじゃなくてアサの意志だ。だったら僕も僕の意志でしきたりの中にいるかどうかを決めてもいいんじゃないか。アサが不思議そうな顔をする。
「何考えてるの?」
「今はまだ秘密」
言葉にしてしまったら選んだ方に進むことになる。簡単に振り払える重さではない。「そっか」とアサが微笑む。崇正は「ごめん」とアサの腹を撫でる。今年も発情期が近い。
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