第3話
調理場のドアを父親が開ける。中から「お疲れ様です」と声がかかる。
「今日はしきたりの日だから息子を連れて来た。みんな、気にせずに仕事を続けてくれ」
はい、と気の入った返事が方々から返って来る。調理場に進む父親に従って崇正も踏み込んだ。清潔だな、と思った。活気があるな、と思った。父親は大きなまな板のような台の前に立ち、崇正に横に立つように言った。
「ここがいずれお前が立つ場所だ」
崇正は、それは違う、と腹の中で思う。僕はプロ野球の選手になる。家業を継ぐつもりはない。だが、それを口にする度胸はなかった。ここは完全に父親のテリトリーの、それも中心部にいる。逆らおうものならどうなるか分からない。それに、もし拒否をしたら父親が恥をかくことになる。職場で家の恥をかくことはきっと耐え難いものだと思う。未来はまだ決まっていない。だから今は頷いた。父親は見届けると、料理人の一人に声をかける。
「一匹、持って来てくれ」
料理人の顔がこわばる。
「いいんですか?」
「いい。今日はそう言う日だ」
料理人は一匹を取りに行く。父親の顔が一段と締まる。崇正は首相達が食べた高級な魚を父親が捌いて見せてくれるのだろうと考え、もしかしたら食べることが出来るのかも知れないと期待しながら待つ。
「ここに」
料理人がまな板の上に置いたのは魚ではなかった。
下半身は魚で、その上半身がまるで人間の子供だった。全長は60センチくらいで、まだ死んでおらず動いている。魚の部分が30センチ程ある。崇正は肝が震える感覚を得ながらも視線が針で固定されたかのようにその一匹から目を離すことが出来ない。震える声で父親に問う。
「人魚……」
「惜しいが少し違う。これは半人魚だ」
半人魚と口の中で復唱する。父親が説明を続ける。
「人魚の肉は食べると不老不死になる。だが、全員がそうなる訳じゃない。そうならなかった者は、人魚になる。半人魚は人魚と人間のあいの子だ。肉の効能が不老不死から健康になる代わりに、人魚になるリスクがなくなる」
崇正は頷く。首がガチガチに固まっていて、歯車のようだった。
「この料亭で出す特別な肉とは、この半人魚の肉だ。健康は何よりも重要なものの一つだから、この肉は権力者しか食べられない。そもそも数がそうある訳ではない。刺身で食べないと効果がないから、こうやって生け簀から取って来て、捌く」
父親は包丁を持つと半人魚の首をストンと落とす。最初から切れていたのかと思うくらいにあっさりと首は落ちた。血が流れるが構わずに魚の部分を切り取り、上半身も捨てる。手元に残った魚の部分をおろしてゆく。崇正は呼吸も忘れて父親の技を見る。人間そっくりだった場所は全て見えなくなり、まな板の上には美しい刺身、ピンクの刺身と魚のアラだけが残る。アラも捨てる。皿に盛り付ける。
「これが半人魚の刺身だ。食べてみろ」
崇正は息を呑む。元の姿を知ってしまって、それからの工程を見た。鼓動が駆け足で耳がわんわんする。だが、他の料理人の目もある。父親に恥をかかせる訳にはいかない。健康になるって言っていた。どんな刺身だって元々は魚なんだ。肉だって牛とか豚だ。肉にする工程を見てないから平気なだけで、同じことをされているんだ。だから食べられる。食べる。
崇正はぎこちなく頷く。さっきの料理人が箸と醤油と豆皿を運んでくれた。醤油を出して、箸で刺身をつまむ。手が震えている。だが、持つことは出来る。喉が急激に渇いて行く。醤油をつけて、口に運ぶ。生臭い匂いは殆どなくて、白身魚のさっぱりとした気配がする。噛むと、弾力があって、ねっとりとする。そこから香るのは多分、生肉の香りに近いものだ。だけど、全然不愉快ではなく、唾液がどんどん出て、噛む程に濃厚な味わいになる。崇正は飲み込んだ。
「おいしい」
「そうだろう。もう一切れくらいは食べていい」
言われて崇正は躊躇なく二切れ目を食べた。
「これが半人魚の肉の味だ。覚えておけ。まぁ、忘れることは出来ないだろうが。これがうちの一族の生業だ。半人魚の養殖もしている。絶対に口外するな。以上だ。帰るぞ」
父親は調理場の外に向かう。崇正は付いて行く。着替えをしたら、さっき歩いた廊下を戻る。父親は何も言わない。
玄関で父親と別れて、崇正は一人、家に帰る。同じ敷地内だが徒歩五分程かかる。崇正は料亭に来たときよりも胸を張って歩いている自分に気付いた。夜風が頬に気持ちいい。「半人魚の肉」と呟いてみる。笑いが込み上げて来て、立ち止まってひとしきり笑い終えてから、家の玄関に向かった。
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