第2話
父親との約束の日、五分前に料亭の入り口に到着した。何も持たずに来たので、時間が来るまで突っ立っていた。受け付けの人とも会釈をしただけで何も喋らなかった。父親が料理人の格好で現れた。初めて見る姿で、この前の包丁よりもずっと迫力がある。まるで包丁で囲まれているみたいだ。崇正は身を竦ませて、だけど逃げずに対峙する。
「ちゃんと来たな」
崇正は生唾を飲み込んでから頷く。父親が不敵に笑う。
「俺に付いて来な」
振り返って向こうを向いた父親の背中が包丁の巣窟のように見える。近付くことは出来ないし、視線を向けることも困難で、足元をなんとか見て、父親に付いて歩く。料亭に入ったことも初めてだが、周囲に対する好奇心よりも目の前の父親への畏怖の方が上に立ち、ずっと父親の足元を見て歩く。父親は何も言わない。
襖の前に並ぶ。中から談笑する声が聞こえる。父親が小声で、だが張りと圧力のある声で崇正に言う。
「いいか、くれぐれも失礼だけはするな」
この襖の中にいる人に会うのだ。仕事の成果を見せると言うことだろう。崇正は厳粛に応える。
「分かった」
父親は頷く。
「その緊張を忘れるな」
父親が正座をする。促されて崇正も同じ格好をする。背筋を伸ばした父親を見て、崇正も精一杯伸ばす。刃物の切先のような数秒の間の後、父親が小さく息を吐いてから、大きな声を出す。
「失礼します。料理長の
襖の内側の声がピタ、と止み、沈黙の陰圧がする。それを切り拓くような男性の声がする。
「どうぞ」
父親が襖を開けると大人がずらりと並んでいた。その前には料理が並んでいる。あの料理こそが父親の仕事だ。中央に座っていた男性が手招きする。「行って来い」と父親に耳打ちされて、男性の横まで進む。男性は柔和に笑い、崇正を膝にでも乗せそうだったが、「失礼だけはするな」と父親の声がリフレインして、男性の横に正座する。男性は軽く頷いてから声を出す。聞いたことのある声だった。だけど思い出せない。
「名前は?」
「柴崇正です」
「私は
「西田さん」
隣に座っていた男性が「こらこら」と入って来る。
「西田さんじゃなくて、西田総理だよ、柴君」
「え」と崇正は西田の顔をまじまじと見る。確かにテレビで見たことがある顔だ。その目で会場を見渡すと、何人か知っている顔がある。
「西田総理、すいません」
「全然いいよ。もう気付いてるかも知れないけど、この会場には政財界の著名人だけがいるんだ。どうしてだと思う?」
「お父さんの料理を食べるため、ですか?」
西田はゆっくり頷く。
「その通り。腕もそうだけど、食材も特殊だからね」
「どんな食材なんですか?」
「元気が出る。病気が治る。内閣に入っている人が在任中に死ぬことが少ないのはここで食べているからなんだよ」
崇正は内閣の顔ぶれを思い出せなかった。
「それって何て言う食材なんですか?」
「それは私の口からは言えない。お父さんに訊いてごらん」
「ありがとうございます。訊いてみます」
崇正は首相の傍から抜けて、襖のところで正座のままの父親の元に戻る。その道すがら眺めたテーブルの上には、刺身を食べた跡があるだけだった。宴席はまだ始まったばかりなのだろう。酒の匂いもしたが微弱なものだった。父親の横に正座する。父親がゆっくりと頷く。
「失礼しました。ありがとうございました」
父親は襖を閉める。閉じようとする襖の隙間から首相が手を振ってくれた。崇正は頭を下げて応じる。父親は黙って立ち、歩き始める。崇正は黙って付いて行く。調理場に到着して、その入り口手前で着替えさせられた。
「さっきのが仕事の結果なら、これから見るのは仕事の原因だ。何を見ても絶対に大声を出すんじゃない」
父親の目は曇りなく、人生で最も大事な約束を求めていた。崇正は「分かった」と歯切れよく答えた。
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