人魚の部屋

真花

第1話

 前を歩く父親の背中を見上げることが出来ず、足元ばかりを見る。躊躇なくしかし一歩一歩を踏み締めるように父親は進む。初めて足を踏み入れた料亭の廊下、閉じられた襖の中から談笑する声が聞こえる。

 崇正たかまさの脳裏に週末のやり取りが蘇る。

 手は料理人の命だからと崇正の野球に携わらない父親が急に、キャッチボールをしよう、と部屋に入って来た。既にグローブを左手に嵌めていた。崇正は父親の矛盾に最初いぶかしんだがすぐに、何か他の意図があると察した。だが、その両方の気持ちを顔に出さずに、素早く「いいよ」と返した。崇正が素直に従ったのは、威厳とは異なる、いつもの父親にはない迫力を感じたからだ。それは不愉快なものでも、包容力を伴うものでもない、まるで美しく打たれた刀を目の前にするようで、萎縮しようとする自分を跳ね除けようと反射的に声を出した。父親は不敵さと安堵の混ざったような顔をして、じゃあ行こう、と部屋を出た。崇正はボールとグローブを取ってその後を追った。

 裏庭には誰もいなかった。日曜日の太陽が安穏な空間を柔らかく照らしていた。最初のボールは崇正から放った。父親は難なくキャッチして、ボールを返す。左に逸れたが崇正は問題なくキャッチした。ボールが行き来する。強くは投げず、お互いに山なりの球を放り続ける。まるで腹の中を探っているようだった。往復するボールが唯一その空間で動いているもので、それ以外は時間が止まっていた。

 パスン、と言う音を立てて父親がボールを捕らえて、そのまま動かない。

 崇正は次を構えていて、狂ったリズムに僅かにつんのめる。父親はボールの代わりに声を放った。

「お前も十二歳になった。しきたりに則って俺の仕事を見ろ」

 父親の職場に出入りすることは固く禁じられていた。崇正はさっきの迫力は刀ではなく包丁だったのだと理解した。父親がどんな仕事をしているのかへの興味はあった。それは禁止の力で育ってもいた。だが同時に、料理をする仕事なのだから概ねのことは想像出来てしまうとも思っていた。それがあなどりに過ぎないのだと包丁で切られた。甘い仕事をしている人間が出せる迫力ではなかった。修羅場を潜った人間と言うものがいるのなら父親はそうなのだろうと直観した。ボールは返って来ない。きっと返事をするまで返って来ない。今朝までの見知っていた父親ではない包丁の父親の働く姿ならば見たい、崇正は挑戦するような気持ちで声を出す。

「分かった」

 父親は頷いて、ボールを投げて寄こした。崇正は捕球したボールをさっきよりも重く感じた。

「明後日の火曜日の夜、七時半に料亭の入り口に来い」

 崇正はボールをもてあそびながら返事をする。

「話は以上」

 父親は家に戻ろうとする。崇正はボールを真上に投げて、キャッチした。いい音がした。父親が歩くのを止めて崇正に向く。

「もう少しやるか?」

「いや、いいよ」

「そうか」

 父親を見送って、しばらく一人で球遊びをした。ボールは元の重さに戻っていた。一体何が父親の職場では起きているのだろう。普通に料理をしているだけじゃないのだろうか。もしすごいレベルの料理だとしても、僕には見分けが付かない。それでも見せるに足る何かなのだろうか。それとも単にしきたりに従っているだけなのだろうか。ボールを放りながら考える。まぁ、行ってみれば分かることだ。今から緊張しても仕方がない。崇正は野球のことを考えようと決めて、家に入った。

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