第8話

 三十五歳のときに、ついに半人魚の捌きを教わり、実際に捌いた。首を落とすのも、魚の部分をおろすのも、問題なく出来た。自分が今殺したものが何なのか、答えを知っている疑問が膨れるのを隅に追いやって無視する。半人魚は自分の子供だ。手塩にかけて養殖した。一番美味しいときに刺身にすべきだ。疑問に対する答えがフライヤーのように頭の中を飛び回る。それを全部集めて、同じ隅に入れる。静かになった頭で、刺身に完成させる。

 父親が頷く。

「最初の一匹だ。ここのみんなで食べよう」

 ひと切れ目は崇正が食べる。十二歳のとき以来の半人魚の肉だ。みんなが見詰める中、口に含む。肉の味が口の中に広がる。やっぱり美味しい。そのとき、アサの顔が浮かぶ。鼻の奥がツンとして、涙が出る。咄嗟に隠そうにも涙は止まらない。父親が崇正の様子を無視するように刺身を口に入れる。

「うん。美味い」

 他の料理人に刺身が回される。崇正は涙を止めることが出来ない。今すぐにでもアサのところに行きたかった。でも今主役は自分なのだ。そんなことは出来ない。涙は止まらない。料理人達に刺身が行き渡る。この後も仕事がある。崇正はいっそ全てを流してしまおうと、調理場の端で泣き続けた。いつも厳しい父親が今日ばかりは放っておいてくれた。いずれ涙は枯れた。アサ、仕事を終わらせたらきっと会いに行こう。

 夜まで料理を作り続けた。仕事を終えて、満ちていた活気がしんと抜ける頃、崇正はアサの部屋に向かった。

「珍しいね、この曜日は」

 アサは起きていて、笑顔で出迎えてくれた。

「どうしてもアサに会いたくなった」

「嬉しい」

 崇正はアサが横たわっているベッドでアサの横に寝る。

「アサ。愛してる」

 崇正はアサをぎゅっと抱き締める。アサは慈愛に満ちた笑顔になる。

「何があったの?」

「言えない」

「……そっか。言わないのもやさしさの内かな」

「ごめん」

「いいよ」

 崇正はアサを抱く腕に力を込める。アサだけは。アサだけは離したくない。アサは何も言わない。

 十分に抱き締めて、崇正は仰向けになる。アサが体を崇正に向けて、顔を覗く。しばらく見てから、崇正の頬にキスをする。

「魔法のキスだよ。悪夢は消えて、いい夢を見るからね」

 本物の魔法なのか、おまじないなのか、崇正には判別が付かない。けれども、胸の中心に巣食っていた半人魚の捌きのリフレインが、ふ、とろうそくの火を消すように消えた。思い出そうと思えば思い出せることは分かるが、さっきまでと違って忘れたままに出来そうだ。

「胸が軽くなった」

「よかった」

 途端に崇正は体の重さを自覚した。このままではここで寝てしまう。それは秘密の保持のためにしてはいけないことだ。

「生き返らせて貰って何のお礼もせずにだけど、今日は帰るよ。また近い内に来るから、お礼はそのときでいい?」

「お礼なんていらないよ。私はいつもここにいるから、いつでも来ていいから。大丈夫、また来てくれるって分かってるから、引き留めたりしないよ」

「ありがとう」

 崇正はアサの頬にキスをしてからベッドを抜け出す。そのまま母屋に続く廊下に向かった。

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