第58話 美しい青 最終話
すべてが終わり、日常は淀みなく流れ始めた。
朝永は忙しい日々を過ごしているようで、逢えない日も多くあった。
その理由は香からもたらされた。
「なんでも大層大きな一揆が島原で起こったそうにございます。きっとそのことでお忙しいのでございましょう」
「一揆が? 上様はそんなことは……」
「菜月さまだけでなく、大奥に暮らす誰にもお話にならないでしょう。――上様はそういうお方にございます」
菜月はなにか言いかけたが、その言葉は発せられることなく、「そうね……」と答えるだけだった。
――香の言うとおりだわ。上様はそういうお方。きっと寝る間も惜しんで働き、すべてが滞りなく終わるまで決して気を緩めることはなさらない。そして、胸の内に全部を仕舞って、なにごともなかったように振る舞われる……。
ならば、なにも聞かないでいよう。
朝永が語ってもいいと思う日まで、いつもとおりの自分でいる。
あなたのそばにいます。いつでもここで待っています。
そう、自分に約束したのだから。
それからしばらく経過した日に、菜月のもとに朗報がもたらされた。
江雪が子を産んだというものだった。その話を告げにきた朝永は少し痩せていたが、変わりない姿だった。
「江雪も子犬も無事ですか?」
「ああ。初産だったが五頭とも無事に生まれた。元気な子犬だ」
「よかった……! 貞宗も父になったのでございますね」
見ることができないのが残念だけど、きっと江雪は子育てに忙しいだろうから、我慢しなければ。
そんな菜月の考えをわかっていたように朝永は言う。
「もう二月もすれば乳が必要でなくなる。その時まで、もうしばし待て」
「はい。嬉しくて舞い上がってしまいました」
「よい。ずっと待っていたのだからな。毛並みの色に希望はあるか?」
「色……でございますか。そこまで考えておりませんでした」
朝永はふっと笑った。
「時間はある。名前を考えていたときのように、ゆっくりと考えるといい」
「は、はい」
菜月はその笑みに顔が熱くなるのを感じて、ごまかすように両頬に手を当てた。
朝永はそんな菜月を眺めたあと、袂に手を入れて、ようやくそれを菜月に差し出した。
「これは……?」
受け取るとツルリとした感触が伝わる。
「長崎から取り寄せたギヤマンの簪だ。そなたは、こういったものを欲しがらぬゆえ、気に入るかわからぬが」
簪は涼やかで、陽光に透かすと眩しい輝きを放った。
しかし、なにより嬉しかったのは、その色が美しい青色だったことだ。
上様の瞳と同じ色……。
「これを、わたくしに……?」
「他の誰に贈ると言うのだ」
菜月の胸が震える。
朝永はゆっくり語る。
「……俺にとって青というのは忌まわしい色だった。だが、そなたは、この青い瞳を美しいと言った。海のようだと。今でもこの色を美しいと思うのならば、受け取って欲しい。そなたの髪を飾る青ならば……、俺も美しいと思うだろう」
――この呪われた目は泰平の世とともに終わらせるべきものなのだ。
今、朝永は自ら呪縛を解いたのだ。
忌まわしい青を、美しい青だと、己の言葉で断ち切った。
どうしようもなく嬉しくて、菜月の瞳から涙がほろほろと流れ落ちる。
「……はい。とても、とても美しいと、そう思っています……」
朝永は菜月の手から簪を抜き取り、美しい黒髪に髪に自分の青を挿した。
それを見つめる口元が緩やかに笑みの形を作る。
「とても美しい青だ。菜月によく似合う」
菜月は涙を拭って花が開くように微笑みを浮かべた。
そうして、ようやく自分が蘇った理由にたどり着いたのだと知ることができた。
それは、朝永の希望を叶えるためではない。
菜月が蘇ったのは、あなたの瞳は美しいと朝永に告げるためだった。
これからも、ずっと、この青い瞳を持つ朝永にそう伝え続けよう。
この青の将軍のそばで。
ふたりが寄り添う頭上には素晴らしい蒼穹が広がっていた。
将軍の側室は死んで蘇った娘。~あなたとわたしは、かりそめの関係~ ✨羽田伊織@電子書籍発売中 @hanedairoi
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