第57話 決別 壱

 菜月が大奥にもどってきて五日が経過した。

 側室誘拐に加え、謀反を企んだのが朝永の実弟という事実に騒然とした空気も落ち着きを取りもどしつつあった。

 菜月も気持ちが安定し、朝永以外の面会が許されたその日に、一番で部屋を訪れた楓と幸と再開を喜び合った。


「ああ……! 菜月殿! よくぞご無事で……!」

「楓さまが上様にお伝えしてくださったお陰で、事なきを得ました」

「なにを仰います。菜月殿が逃がしてくれなければ、わたくしも幸殿もどうなっていたことか」

「誠に……」と幸も涙ぐんでいる。


 菜月はずっと気にかかっていたことを問うた。


「それより綾さまはどうなさっておいでですか。おふたりが危険な目に遭われてお心を痛めたのでは……」

「いいえ。事の顛末を話している最中は静かに聴き入り、なにも仰らなかったのですが、一昨日よりお食事を召し上がるようになったと小夏が報せてくれました」

「それでは……」

「はい。もう大丈夫にございます。今日、お目通りしたさいに菜月殿にお会いするとお伝えしたところ、言づてを頼まれました。『申し訳ないことをしました。必ずお詫びにお伺いいたします』と。そして『一緒に簪を選びましょう』と。……わたくしたち三人から贈らせてくださりませ。綾さまがお元気になられましたら、その願いは叶いますか?」

 

 楓は控えめに微笑み、幸もまた頷いている。

 その心は素直に受け取りたい。菜月は微笑んで答えた。


「もちろんにございます。綾さまにお伝えください。お目にかかれる日を楽しみにしていますと」



 菜月が日常を取りもどしつつある間に、朝永は幕閣たちと朝照の処遇について協議を重ね、死罪という決断を下した。

 母親が半狂乱で城に乗り込んできたが、大奥の女性、しかも朝永が唯一、寵愛する側室を拐かし、狼藉に及ぼうとした行為は、幕府に仇なすものであるという決断は覆されることはなく、処刑の日まで格子越しの面会のみを許可するだけだった。

 これまでも幕府は兄弟の確執を深くしないように、朝照に対して最大の譲歩を行い、均衡を保ってきた。

 それを破ったのは朝照の浅薄な考えだ。

 いくら朝永の母親が反対しようと、この狼藉を見逃せば諸藩に示しがつかないというのが大筋で、これには保守的な幕閣も頷くしかなかった。

 朝永は刑が量定した日に、自ら朝照に伝えるため江戸藩邸に赴いた。

 まともに会話をしたことのない弟の言い分を兄として受け止めるためだった。

 朝照は己の処遇を聞いたとき、殴打に変色した顔を歪ませ、せせら笑っていた。


「将軍の実弟を死罪など、そんなことを母上が許すはずがないだろう」と。

 女も攫いはしたが手籠めにしたわけでもない。たかが女ひとりごときで大袈裟だとも言った。


「――醜い男だな」

「なに?」

「醜いと言った。ここまで性根が腐っているとは。これでなんの憂いもなくなった」


 朝永は朝照を見下ろしながら、いっそ穏やかさを感じさせる声で続ける。


「己の罪に気づくことさえできぬのならば、首を落とされても気づかぬであろう。いっそ腕の拙い者に任せるのも一興か。痛みを覚えれば多少は目覚めるかもしれぬ」


 静かだが覇気をまとう朝永の言葉に、ようやく現実が見えた朝照の表情から色が消えた。


「おまえが言う『女ごとき』の苦しみは、これでも足りぬだろうがな」


 朝照は恐怖から逃れるように激高し、絶叫した。


「不吉な女しか手に入れられない貴様と一緒にするな! 青鬼ごときが余を死罪にするだと!? その驕りこそが母に捨てられた原因よ! まともに世継ぎを産ませられぬ男が将軍などと、片腹痛いわ!」


 朝永が欲してやまなかった母親の愛情を一身に受けた男の醜悪さは、その醜さごと愛し続ける母親との決別となる言葉だった。


「ここから出たら、必ず貴様を将軍の座から引きずり下ろしてやる……! 貴様を担ぎ上げたじいさまも、父上も、もうこの世におらぬ。数年遅く生まれただけで、その座を奪われた屈辱がどれほどのものか思い知るがいい!」


 朝永は冷ややかな一瞥を投げかけただけで、それきり口を開くことなく屋敷を去った。

 強烈な悪意を向けられたというのに、長年背負ってきた重さが剥がれ落ちたような感覚を抱いた。苦しみ続けた楔が断ち切れたような気さえする。


『あなたが傷つく』


 ――それは、こういうことだったのか? 菜月


 激情のまま殺していれば、きっと今のような心境になることはなかっただろう。

 苦しんできた思いに区切りをつけることはできなかった。

 朝永はゆっくりと息を吐いて、新しい空気吸った。瑞々しくて、まろやかな味だった。


 ずっと凍てついた世界に住んでいた。

 温度を感じない時間が朝永のすべてだった。

 ただ、菜月だけがもたらせてくれたのだ。人の温もりというものを――。

 朝永は馬に跨がり城を眺める。

 権力の象徴であるだけのそこに、淡い色がついたような気がする。

 その色は、菜の花のように、明るく、温かい色だった。

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