第56話 結の話 弐

 そのあとのことは悪夢のようだった。

 母親のいる隣の部屋で結は初めてを散らし、娘のすすり泣く声を聞いた母親は、ここで暮らす意味を悟った。

 男が屋敷を去ったあと、ショックのあまりほうとした結に着物を着せながら、母親はここを逃げなければと決意した。と、音もなく襖が開く。

 母親は結を庇うように抱きしめた。

 そこにいたのは、あの男ではなく、初老の女だった。


「わたくしは、この屋敷を預かる者です。あなた方は、あのお方に情けをいただいてここにいます。その恩をお忘れなきように」


 果たして。

 母親は屋敷から逃げることはなかった。いや、逃げることを選べなかった。屋敷には用心棒のような男がひとり住んでおり、常に、ふたりを監視していたからだ。逃げれば間違いなく殺される。

 そうして結は十四の歳で男の妾となり、月に二、三度訪れる男の相手をした。

 結も母親も無力だった。

 そうして十五になったころ、男は新しい役割を命じた。


「奥女中として奉公にあがれ」


 大奥で見聞きしたことをすべて報告しろというもので、女中奉公できる偽りの身分を与えられた結は、命じられるまま大奥で働き始めた。


 語る結の声は、雨が降るように密やかだった。

 聞き終えた朝永が問うた。


「男の正体が朝照だと、いつ気づいた」

「一年ほど経過したころです。奥女中を命じられる少しまえでございました」

「なぜ逃げなかった。従順に暮らしていれば、その機会はあっただろう」

「そのころには、母にはもう気力が残っておりませんでした。母を置いて逃げることは、母を見殺すことになります。……逃げることは、できませんでした」


 結は必死に働き、朝照のめいをこなし続けた。

 その働きが認められたのか、朝照が手を回したのかわからないが、朝永公の寵愛を受ける少女の部屋方に抜擢された。

 それが菜月だった。


「それで菜月のことを報告したのか」

「……はい。朝照さまから上様の弱みを探れと命じられておりましたので」

「ではなぜ、側室の話を受けた。菜月のそばにいた方が、おまえの望むことが行えたであろうに。菜月が辛く当たったのか」

「いいえ。気取ることも、驕ることもなく清らかで……本当にお優しいお方でございました」


 結はうつむいて、息苦しさを吐き出すように続けた。


「……だからこそ……、憎かったのでございます」

「憎い……?」

「上様のご寵愛を受け、幸せに輝いているお姿を目にするたびに、なぜ、わたしには幸せは訪れぬか、なぜ自分とこんなにも違うのだと。……ただただ、悔しかった……」


 結の目から溢れた涙がこぼれ落ちる。


「側室の話を受けたのは……母からの文が途絶えたことにありました。一月に一度、寄越される文だけが母の無事を知らせるものでした。それが二月も届かなかったのです。理由を問う文を出しても返事がありませんでした……。入江さまから側室のお話をいただいたとき、母を救える最後の機会だと思いました。母を世話係として大奥へ呼び寄せることができれば、あの地獄から母とともに抜け出せるのではないかと……」


 朝永は沈黙を貫き、結の言葉を聞いていた。


「――ですが、母はもうこの世を去っておりました。それを知ったのは参拝の報せの文を渡した時にございました。あの用心棒の男が言ったのでございます。娘を犠牲にした女に似つかわしい末路だったと。――菜月さまを売ったわたくしへの罰だと思いました。……わたしにはもう、なにもない」


 結は平伏して、「どうぞ、お手討ちになさってくださりませ」そう言った。


 すすり泣く声が静かに響く。

 その姿は、どうすることもできなかった運命に嘆き、悔いる姿そのものだった。

 今までの朝永であれば、その姿に心を動かすことはなかったと言える。

 謀反人の女だと一片の躊躇いもなく重い裁きを告げただろう。


「――寺に入り尼として生きよ」

「……え……」

「おまえの犯した罪は消えぬ。だが、朝照の居場所を報せてくれなければ、菜月を救うことができなかったのもまた事実だ。命ある限り、母と菜月たちを守るために死んだ者たちの冥福を祈れ。それがおまえにできる贖罪だ」

「う、えさ……」

「菜月もそれを望むだろう」

「……ううっ……ひうっ……」


 結は顔を覆って嗚咽をもらしながら、何度も何度も頷いた。


 三日後の早朝。七つ口からひっそりと大奥を去る結の姿があった。

 誰にも見送られない静かな、静かな出立だった。

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