第55話 結の話 壱
朝照は結を自分の間者だと言った。
それは、結が自ら望んだことなのか、それとも、断り切れない弱みを握られていたゆえの行いなのか――。
だが、間者でいるなら朝永の側室になる必要はない。
少なくとも結は朝永の気性を知る場所にいた。側室になったとしてもお召しがないことはわかっていたはず。
いくら考えても結の思惑は見えないままだ。
つらつらと、そんなことを考えていると貞宗を連れた高麗川が部屋へやってきて、思考が途切れた。
貞宗は誇らしげな顔をしつつ尻尾を振っている。
その姿は「褒めて」そう言っているかのようだ。
男たちに飛びかかっていった勇猛さは、敵陣に切り込む一番槍さながらだった。それが、今は無邪気を絵に描いたような丸い瞳で菜月を見つめて、頭をこすりつけてくるのだ。
「助けてくれてありがとう」
胸に抱きよせて全身を撫でた。
ほどよい時間が経過すると香に促されて布団に横になった。
眠れる気はしなかったが、隣に寝そべる貞宗の温かさに心が落ち着き、菜月は深い眠りに落ちた。
明日、朝永に逢えることに、ふわりと浮き立つような幸福感を胸に抱いて。
***
菜月を部屋に送り届けたあと、朝永は大奥の一番奥に作られている座敷牢に向かった。入り口を見張る女中が木戸を開けると、薄暗い廊下を進んでいった。
ジジッと明かりとりの油の音が燃える音が聞こえる。
目的の場所で足を止めると、牢屋のなかから声が発せられた。
「――上様」
そう言って結は静かに平伏した。
「おまえの言うとおり、菜月は朝照が所有する江戸藩邸にいた」
「……菜月さまは」
「無事だ」
結は、ああ……と空気を振るわすように声をもらした。
「おまえの命の処遇を決めさせてもらう。そのための話だ。偽りなく答えよ」
「はい」
結は隠していた胸の内をつまびらかに明かしていった。
自分を縛った過去のできごとを。
結は
幼いころは商いも順調で苦労を知らず育ったが、父親が博打にはまったことで生活は破綻した。借金の取り立てから逃げるように夜逃げをして、長屋の一室に住まいを移した。
まともな仕事をすれば、すぐに見つかってしまうため、結も母親も働くことができなかった。
当然のように生活はすぐに行き詰まり、父親は結を遊郭に売ることを決めた。突然やってきた仲介屋の男に連れ出され、結は必死で抵抗を試みた。
「離してくださいっ! 離してっ!」
「どうか娘だけはお助けください! わたくしが下働きでもなんでもいたしますゆえ、娘だけは……っ!」
母親も男に縋りついて結を庇おうと必死に言い募った。
通りの往来で行われる騒ぎは人々の注目をさらい、皆一様に哀れな母と娘の結末を固唾を呑んで見守っていた。そんななか、
「その娘、俺が買おう」とひとりの男が言った。
「なんだ、てめぇ?」
仲介屋の男はすごむが、数名の侍が男を取り囲む。
「……な、なんだよ!? 俺は売られた女を届けるだけだ!」
「だから、俺が買うと言っている。いくらだ?」
仲介屋は言いよどむが、自分の置かれている立場がわからないほど愚かではなかった。買値の三倍の値段を口にした。
「そんなものか。渡してやれ」
男がそう言うと警護をしていたひとりが銭袋を取り出して、金子を渡した。
仲介屋は相好を崩して「へへっ。どうも」と言い残し去って行った。
「あ、ありがとうございます……!」
母親が額をこすりつけ、涙ながらに礼を述べた。
その男は言葉を投げかける。
「行き先にアテはあるのか」
母親は黙って首を振った。
「ならば、俺の屋敷の下働きをしてもらおう。娘とともに付いてこい」
男の威風堂々とした振る舞いに、結は思った。
神さまが自分を救ってくれたのだと。
男の屋敷はときおり使う別宅のようで、街から少し離れた場所にあった。
母親と結は、すぐに湯浴みをして垢を洗い流し、与えられた着物に身を包んで男の前に膝を突いた。
「落ち着いたか」
「はい。なにからなにまでお世話になり、言葉もございませぬ」
「ここは俺の隠れ家のようなものだ。俺がいつ訪ってもよいように屋敷を整えておくこと。これが、そなたたちを雇う条件だ。よいな?」
「はい。必ず」
結も母の横で頭を垂れた。
あのろくでなしの父親から脱げおおせることができて、遊郭へ売られることもなく なった。
――このお方に誠心誠意お仕えしよう。
結の心には希望の光が差し、生きる意味を見出した思いがした。
その男が結のそばへきて立ち上がるように促す。
「さっそく働いてもらおう」
「は、はい。なにをいたせば……」
そう言いかけた結の腰を、男は抱いた。
「あ、あの……?」
神のようにも思えた男の目が邪な色に変わる。
「おまえは俺が買った娘だ。楽しませてもらうぞ」
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