第54話 沈黙した大奥~菜月の行方 玖

 温かい。

 そうっと菜月を引き寄せると、細い身体が腕のなかへ収まる。

 梅花香の香りがふわりと漂った。

 離れがたい温もりだった。

 もう二度と逢えないかと軋んだ心臓の痛みが和らいでいく。

 菜月の涙は止まっただろうか。


「上様」


 高麗川が短く呼ぶ。


「制圧終わりましてございます」

「……わかった」

「外に権門駕籠けんもんかごを用意しております。どうぞ菜月殿連れて城へおもどりに」

「朝照はこのまま牢に閉じ込めておけ。……殺すな」

「はっ」


 菜月の肩が揺れ、ほうっと息がこぼれていくのがわかった。

 胸もとにある細い手が、共襟ともえりをきゅっと握る。


「すいみせぬ……。涙で……顔が……」

「かまわぬ。つかまっていろ」

 

 そう言って膝裏に腕を差し入れて抱き上げた。

 菜月は「えっ……」と朝永を見やった。朝永は表情を緩めて言う。


「城へもどるぞ、菜月」


 真っ赤になった顔を埋め、菜月はこくりと頷いた。

 この重みを失わずにすんで良かった。

 朝永の心に安らぎにも似た感情が胸を満たしていく。ほっとするような、息がつけるような静穏。

 城へもどるまで馬上の朝永は、菜月が乗る籠の横を決して離れることはなかった。



 ***



「菜月さまっ!」

「香……!」


 朝永が菜月を畳に下ろすと、香は力強く抱きしめた。


「ああ、ああ、よくぞご無事で……!」

「ごめんなさい、香……」


 香は菜月を抱きしめたまま礼の言葉を述べる。


「上様。誠に、誠にありがとうございまする……! このご恩は一生忘れませぬ」

「よい。このようなあとだが、お匙に診てもらえ。興奮状態で傷の痛みを感じないだけかもしれぬ。部屋の周りには警護の者を置いている。安心するがいい。――菜月」

「はい……」

「あとで貞宗を使わす。伊々田家、守刀の名を持つ犬だ。必ずそなたを守るだろう」

「あ、ありがとうございます……」


 朝永は膝を突いて視線を合わせる。

 その瞳は、怖いことはもうないのだと物語るような、力強さがあった。


「明日、必ず様子を見に参る。それまでゆっくり休め」

「……はい」


 朝永が出て行ってから、しばしの時を経てお匙が入室した。

 大きな傷はなく、打たれた腹の痛みも数日で収まるだろうと聞いて、香は安堵に涙した。


「心配をかけてしまったわね。ごめんなさい」

「上様が助けてくださらなければ、どうなっていたか……」


 菜月は香の肩を抱きしめる。


「……菜月さまが死んでしまわれたら、香も追いかけるところでした」


 わたしも朝照さまの手に落ちていれば、間違いなく死を選んでいた……。

 あんな男の慰み者になるなど耐えきれるものではなく、生きていれば朝永の足を引っ張ることになる。

 日をまたいでしまえば取り返しの付かない事態に陥っていた。

 上様は楓さまの言葉を聞いて、すぐに行動なさってくださったのだわ。だから、あんなに早く……。

 大勢が叫ぶ鬨のような声とともに現れた朝永は、戦場に降り立った鬼神のように勇ましく、その姿は、乱世を終結させた大権現の再来のようにも思えた。

 朝永がこないまま、もう小半刻こはんとき遅ければ、菜月の純潔は失われていた。

 朝照の暴挙を思い出すだけで嫌悪がわきあがる。

 朝永と同じ顔をしながら、おぞましい言葉を吐く姿は悪夢そのものだった。

 それでも、朝永が殺すことを止めてくれたことに安堵を覚えるのだ。


 ――どんなに憎んでいても、一方的に切り捨ててしまえば、痛みを背負うのは上様になってしまう……。


 例え朝照の運命が変わらなくとも、幕閣と協議して下すべき罰と、激情に駆られて命を奪うのではまったく別ものだ。

 朝照には自分の行いを恥じ入り、罪の重さを知って欲しい。

 ただ、ひとつ、しこりのように残っていることがある。

 結のことだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る