第53話 沈黙した大奥~菜月の行方 捌

「信じられないという顔だな。だが、アレは俺の女だ。金のためならなんでもする、あさましい女よ。おまえの参拝を報せたのもアレだ。ククッ。自分の女を奪われたと知ったら、あの兄はどんな顔をするのやら」


 愉悦の混じった笑い声がもれる。


「鍵を開けよ。――しばらくは誰も入るな。こんな女だが兄の上書きをするのも一興。時間をかけて可愛がってやろう」

 

 控えていた男が錠前に鍵を差し入れた。

 ガチリと錠が外れ、入り口の扉が開く。朝照がゆっくりと格子戸をくぐってなかへ入ってくる。


「どこまで意地が張れるか見物だな」


 ニヤニヤとした笑みを貼りつけて朝照が近づいてくる。

 反射的に下がる身体はすぐに壁際に追い詰められた。


「さぁさぁ、ひとりでどう抗う? おまえがここに連れ去られたことは誰も知らぬからな。時間はたっぷりある」


 怖い。恐ろしい。

 朝永と同じ顔をして醜悪な言葉を吐く、この男が。

 だから許せない。

 こうやって朝永は奪われてきたのだ。存在を否定されてきたのだ。


『ひとりでも幸せにしてみたいとも願った』


 そう願う心を捨てて。

 菜月の心に抗う感情がわきあがる。


 ――上様は認めてくださったわ。薙刀を続けることも、御台さまのことも、不吉な生まれのことも。こんな卑劣な振る舞いに屈しては、上様に顔向けできない。今度はわたしが上様のお心を守らなければ……!


 髪に刺さった簪を抜き取り、先端を朝照に向ける。


「わたくしは、あなたの好きにはされませぬ……! たとえこの身が穢されようと、あなたの意のままになることは決してありませぬ!」


 この状況下にあっても、菜月の目は凜として、気高くさえあった。

 城を任された女城主のように。


「ほう。その目、実にいい。――恥辱に泣き濡れた顔を見たくなる」


 そう言いながら朝照は菜月を思い切り蹴った。

 壁に強く打ち付けられ、衝撃に簪が落ちる。その手をつかみ床に押し倒された。


「離しなさい……! 離して!」

「しょせんは女子よ。男の力に勝てはせぬ。さぁ、兄のもとへ帰ることができない身体にしてやろう。安心しろ。しばらくは囲い者として生かしておいてやるゆえな」


 胸もとが広げられ、割れた着物のあいだに身体を差し入れてくる。

 懸命に身をよじって抵抗した。

 近寄る顔を背け、必死で身体を押す。しかし、上からのしかかる体重を押しもどすことができない。

 あれだけ稽古をしてきたのに、なんて非力なの……!

 悔しさに涙が滲む。

 月光を浴びる朝永が脳裏をよぎる。

 静かで穏やかな夜。


 ――わたしの居場所はあそこなの。例え上様のおそばにいられなくても、あそこがわたしの帰る場所なの。嫌、いや! わたしに触らないで!


 堪えきれず、涙が流れる。

 朝照は愉悦を浮かべて菜月に触れる。黒く濁った欲望にまみれた手で。


「いやぁ――――っ!」


 菜月が叫んだ瞬間、「ギィヤアァァァ!」と男たちの叫び声がした。

 グルルルルと獣が唸る声も。

 涙に濡れた菜月の目に、門番たちに襲いかかる黒犬の姿が目に飛び込んできた。

 貞宗!?

 同時に雄々しい男たちの屋敷を振るわす声が響き渡る。

 そして、空気を切り裂くような鋭い声。


「菜月――っ!!」


 朝永の目に飛び込んできたのは、菜月を組み敷いた朝照。

 その瞬間、朝永の冷静さは消し飛んだ

 座敷牢へ入るやいなや、目を見開いている朝照の横腹を蹴り飛ばした。吹っ飛んだ 身体は回転しながら壁に激突する。

 菜月は信じられない思いでその光景を見ていた。

「菜月」と名前を呼んでくれた日から、姿を目にすることができなかった朝永がここにいる――。

 夢ではない証に、朝永は朝照を起こして頬に拳を叩きつける。

 ゴッゴッと骨の鈍い音がして、朝照の顔は歪み、あっという間に血で染まっていく。


「貴様! 菜月になにをっ! 決して許さぬ…! 生かしておかぬ……!!」


 朝照の口からグフッ、グフッという濁音が洩れ、胸もとをつかんだ手が離されるとズルリと床に転がった。

 そこへ朝永の長い脚が、鋭い蹴りを腹に叩き込む。釣った魚が身をくねらすように跳ね、二度、三度と繰り返される容赦ない蹴りに内臓が潰れるような音がした。

 意識を失った朝照はされるがままだ。

 朝永は激情にかられるまま殴打し続けた。


 ――一体なにが足りぬと言うのだ! 母の愛も、土地も民もすべてを持ちながら、菜月まで奪おうというのか!


 菜月だけが恐れず、微笑みを向け、俺のために涙を流してくれた。

 心に温かさを灯してくれた。

 それを穢す、この男は生きる価値などない。地獄でも生ぬるい――!

 朝永は刀を抜いた。

 一度で殺してなどやるものか。耳を削ぎ、鼻を削ぎ、手足を落として、苦しみにのたうちまわって死ねばいい!

 朝照に切っ先を向けたそのとき、華奢な手が朝永の手をつかんだ。


「上様! いけません……っ!」

「離せ、菜月! こいつだけは生かしておけぬ!!」

「駄目です! あなたが……あなたが傷つきますっ!」


 俺が――?

 菜月の瞳は朝永だけを見つめていた。

 ほろほろと流れる涙を浮かべた瞳に自分が映っている。

 それを目にした朝永に正気がもどってくる。


「殺してしまえば、その傷は一生消えません……。許せなくても……いけません……」

「だが、そなたに惨いことを……」


 菜月は朝永の頬に両手を伸ばす。


「……わたくしは無事です。穢されてもおりません……。上様がお救いくださいました」


 朝永の怒りに強ばった肩の力抜け、刀をつかんだ手がゆるりと下ろされる。


「怪我は……」

「大丈夫にございます」


 そう答えた菜月の手を朝永は握った。


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