第52話 沈黙した大奥~菜月の行方 漆
頬に冷たさを感じて、うっすらと目を開けた。
ここは……。
「いたっ……」
動くとズキリと腹に痛みが走る。呻きながら腹を押さえた。
その傷みに記憶がもどる。
そうだわ、わたしは賊に攫われた……! ここはどこなの……?
目に入るのは床から天井まではめ込まれた格子戸で屋敷のなかに作られた座敷牢だとわかった。
逃げ出せるような箇所はどこにもない。
這うようにして入り口に手をかけたが鍵がかかっており、むなしくガチャガチャと音が鳴るだけだ。
声も聞こえず、人の気配もない。
なぜ自分が攫われるのか菜月には見当もつかなかった。
殺されるのだろうか――。
冷たい汗が流れ、知らず呼吸は乱れる。
――いいえ、殺すのならば寛永寺でもできたはず。わたしを捕らえることが目的なのだわ。だとしたらここにいては駄目。なんとかして逃げなければ。
菜月は自分を落ち着かせようと深く呼吸を繰り返した。
大丈夫……。きっと楓さまが上様に伝えてくださるはずだわ。そうすれば上様は体制を整えて捜索なされるはず。
自分が逃げ出せる好機があるとすれば、ここへ人が入ってきたときだ。
女だと侮る瞬間がきっとある。
なにか武器になるものはないかと牢屋のなかを見渡したが、横たわっていた
思わず身を固くする。
恐怖に心臓が軋み、喉が狭まる。
交差した手は胸元をぎゅっと握った。
数秒もしないうちにその姿が現れた。
――上様!?
菜月の目の前にいるのは朝永にそっくりの男だった。
いいえ、違うわ。目が黒い……。
だが、その瞳は黒く濁った酷く邪な瞳で、朝永の清廉潔白で気高い瞳とまるで違う色だった。
菜月を舐めるように見たあと、ニヤリと笑みを浮かべた顔が言った。
「あの兄の女にしては、それなりの美貌ではないか。ま、所詮は薩摩の田舎娘だが」
兄……? では、この男は上様の弟?!
あまりの衝撃に絶句する。
なぜ、上様の弟君がわたしを攫うの?
呆然とする菜月を眺めたあと、朝照は格子に近寄った。思わず後ろに後ずさる。
「よい顔だ。怯える女は実にそそる」
菜月は震える声で懸命に告げる。
「な……なにが目的なのですか……。人を殺めてまで、どうして、わたしを……!」
「ほぅ、口がきけるか。多少は骨のある女だな」
朝照は値踏みするように唇で親指をひと舐めしたあと、勢いよく格子戸に両手をかけた。錠前がガチャンと音を立てる。
「……っ!」
思わず肩をすくめ、ぎゅっと目をつぶった。
「ハッ。なにが目的だと!? 簡単なことよ。世継ぎを産むに値せぬ女を成敗するため。おまえなどが産んだ男子など、世継ぎなどと認められるか!」
朝照は憎しみをぶつけるように吐き捨てる。
「あの兄もとうとう気が触れたらしい。死して蘇った女と子をもうけるなど、将軍の行いとしてまともではない。おまえごときが生母となるなどあり得ぬわ! ……やはり、母上の仰るとおり将軍となるのは余でなくてはならぬ。余ならば異形の目など持たぬ、まっとうな子を産ませてみせる」
余りの言葉に恐怖が消し飛び、代わりに怒りの炎が身の内側を燃やし、指先まで熱くなる。朝永がどれだけ努力を積み重ねたか知ろうともせず、平気で踏みにじる言葉は、とても許容できるものではない。
――上様は母親さまを、人を幸せにしようと必死で努力をなさったわ。それが叶わなくとも、懸命に国を治めようと努められた。『鬼と呼ばれる子に幸せなどない』そう言って子を持つことさえ諦められた。
あの美しい瞳にすべてを閉じ込めて、国の行く末をだけを案じられた。
それを異形と吐き捨てるなんて……!
菜月はキッと朝照をねめつけ、わななく唇は意思を伝えるために開いた。
「……わたくしが不吉な娘であることは否定しません。ですが、上様の青い瞳はこの世でもっとも美しく、気高き瞳。国を安寧を願うお心も、民が飢えぬように務められるお心も、あなたとは比べものになりませぬ。上様こそが真に将軍として相応しきお方。決してあなたなどではございませぬ……!」
朝照の口角がピクリと痙攣し、額に青筋が浮き出す。
邪悪と歪を煮詰めたような目の色が菜月を穿つように見た。
「あの青鬼が美しいだと? まともに子をもうけることさえできぬ鬼が? 買いかぶりにもほどがある。あれはな、裏切り者にさえ気づかぬただの阿呆よ」
「裏切り、もの……?」
朝照はククッと薄ら笑いを浮かべる。
「おまえに仕えていた結という女は、俺の間者だ。そうと気づかず、おまえの部屋方となり、兄のそばにいた。阿呆でなければなんだというのだ?」
――結が……間者?!
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