第51話 沈黙した大奥~菜月の行方 陸
「む」
賊がこちらに向かって歩いてくる。
祈りもむなしく、賊は菜月を見つけてしまった。
「こんなところに隠れていたか……。名前は」
必死でかぶりを振る。
賊は「チッ」と舌を鳴らし、倒れている警護の男に刃を突きつけ、低い声で言った。
「――菜月という女を差し出せ。そうしたら、この男の命は助ける」
「な……なりませ、ぬぞ。早く、お逃げに……」
「うるさい! うるさい! うるさい!」
「ぅぐっ! ガハッ!」
警護の男の腹や胸、顔が何度も蹴られる。鼻や口から血が噴き出し、刀が握れないように力任せに踏み付けられた右手の指があらぬ方向へ歪む。
「ま、待って、止めて……!」
賊は動作を止め、警護の男の喉元に刃を突き付けた。
光を受けて、刃が白光を放つ。
「こいつを殺されたくなければ、名乗れ。おまえの名はなんだ」
自分が囚われれば、朝永にどんな要求が突き付けられるかわからない。
黙って殺されるべきだ。
うつむいて強く握った拳を小刻みに震えさせながら、襲いかかろうとする死の恐怖に耐える。
答えない菜月に苛立った賊は、男の手を踏み付ける力を増し、ついにボキリと骨の折れる音がした。
「ぅがっ……!」
「おまえを見殺しにするとよ」
ツプ、と刀の切っ先が喉に刺さり首筋に赤い鮮血が流れた。
菜月は思わず叫ぶ。
「や、止めてっ!」
「ならば名乗れ!」
「……っ!」
切っ先はほんの少し横に振るだけで喉を切り裂いてしまう。
警護の男は鮮血に染まった顔を歪めながらも、いけませんと言うように首を振る。 その目を見たとき、菜月を支配したものは原始的な欲求だった。
だめ……。駄目。殺さないで……!
「これが最後だ。名前は」
警護の男が悲壮な目を向けるなか、「菜月。――……菜月、です」と答えた。
賊がニヤリと口角を上げ、警護の男の喉を切り裂いた。
真っ赤な鮮血が吹き出す。
「……ゃ!」
叫び声を上げる前に賊は菜月の口を塞ぎ、みぞおちに拳をねじ込んだ。
強い衝撃に身体が折れ、声が途切れる。巨躯の男は菜月の身体を易々と担ぎ上げた。
ピィィー! と犬笛が鳴る。
賊たちは攪乱するように方々へ散り散りに逃げていく。菜月を担いだ男たち、ふたりも混乱に乗じて寛永寺から逃げ去る。
薄れていく意識のなか、菜月は胸のなかで叫んでいた。
――どうして殺すの! なんの目的でこんな殺戮を! 上様が懸命に守っているこの国で……!
◆菜月の行方
寛永寺襲撃の知らせは早馬によって即刻、朝永の耳に入った。
高麗川からの報告を聞くなかで、攫われたのが菜月であると知ったとき、朝永の心は大きく揺れた。
だが、冷静に努めるのだと自分に言い聞かせ、平静を保つように言った。
「賊の人数と首謀者の目処は立っているのか」
「襲撃者はおよそ二十。生け捕りにできた者はおらず、誰が首謀者か特定は不可能。全員が網代笠を深く被り、口布で顔を覆っており人相も定かではないとのこと」
「しかし、なぜ菜月だけが攫われたのだ。楓や幸もいたのであろう」
「賊は“一番背の高い女を探せ”と指示しており、最初から菜月殿が狙いでした。それを知った菜月殿は自ら囮となって楓殿たちを逃したそうにございます。お陰で、おふたりは身を隠すことができ、無事でしたが、菜月殿は……」
「賊の目的は最初から菜月だったと」
「そのようにございます」
「一体なんの目的で菜月を……。いや、それより賊を追っている者はおらぬのか。菜月の行方は」
高麗川は首を振った。
「こちらの警護は十数名で、楓殿たちを守るために残った二名と、早馬で報せた他はすべて亡くなっております。参拝を内々に済ませようとして警護の数が少なかったことが
賊の首謀者もわからず、目的も定かではない――。
それは探すあてがないに等しいということだ。
菜月を狙っていたなら、生きてもどる保証もない。
冷静に努めようとした心に隠すことができない怒りが渦を巻き、拳を固く握り、思い切り脇息に切り叩きつけた。ギッと音を立てて中央からへし折れる。
――どこのどいつだ。こんなふざけたことをする奴は! 菜月がなにをしたというのだ!
高麗川が鋼の重さを伴った声で言う。
「上様。これは計画が練られた上での
朝永の心にはっきりと憎悪がわきあがる。
――決して許さぬ。見つけ出して必ず殺す……!
「陽水。すぐに草を放ち、諸藩の江戸藩邸すべての動きを探るのだ! 寛永寺から連なる道すべてに人を送り、怪しい動きをした者や籠を見た者の話を聞き、しらみつぶしに行き先をあたれ!」
「はっ!」
「すぐに動かせる手練れを百揃えよ。謀反人を必ず捕らえ、俺の前に引っ立てるのだ。逆らう者はひとりとして生かすな!」
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