第8話 天使の矢
ベッドの上であぐらをかいた俺は、二日酔いでズキズキする頭を押さえながら、それを眺めていた。
組んだ足の前で、ベランダから射し込む朝陽に輝くふたつの品。
人差し指と親指がつくる弧ほどの小さな黄金の弓と、それに見合うサイズの、三本の白銀の矢である。
これがあるってことは、昨夜のことは夢じゃない……のかな?
俺は眉を寄せた。
たたでさえ、昨夜のアルコールで鈍った頭が、ますます混乱する。
夢じゃないってことは、あれは本物ってことに……そんな馬鹿な。
あれ……天使である。
気の合う同僚と上司の悪態で盛り上がり、相当、グラスを重ねたことは覚えている。
ふらつく足取りで、このマンションの七階、自分の部屋にたどり着いたことも、なんとか覚えている。で……。
俺は黄金の弓を手にとった。
で、気がつくと、小さな天使と向かい合っていたのだ。
天使は、童話の絵そのままの姿をしていた。
どういういきさつかは、きれいさっぱりと忘れてしまったが、俺は、その天使と賭けをしたのである。
何をかけたのか、残りの寿命か、魂か?
何の賭であったのか、カードかコインの裏表であったのか?
そのどちらも、覚えていないが、とにかく勝ったのだ。
その証拠に、天使の賭けたふたつの品、黄金の弓と白銀の矢がここにある。
ニャア。
考えこむ俺の耳に、猫の鳴き声が届いた。
見ると、わずかに開いたドアの隙間から、ペットの白猫、ユキコが顔を出していた。
ユキコを見た俺は、天使の言葉を思い出した。
『この矢はね、人間以外にも効果があるんだよ。
犬に射れば、彼は君の忠実な騎士になるだろうし、花に射れば、彼女は君のために美しく咲き誇るだろうね』
俺は思い出すままに矢をつがえ、器用に弓を引いた。
狙いはユキコである。
ゆっくりと指をはなすと、澄んだ音をたてながら、白銀の矢は漂うように飛び、きょとんとしているユキコに吸い込まれていく。
そして、ユキコに当たる寸前、矢はかげろうのように淡く消えた。
その途端、ユキコの白い体が、一瞬ポッとピンク色に染まった。
ミャ~~ン。
甘えた声を出したユキコは、走り寄ってくると、軽々と俺の膝の上にとび乗り、頭をこすりつけてきた。
やっぱり天使の言っていたことは本当……、いやいや、ちょっと待てよ。
二本目の矢を弓につがえ、うなずきかけた俺は、あることに気付いた。
ユキコは、最初っから俺になついているのである。
ニャン。
不意にユキコが俺の手にじゃれついた。
「あ!」
俺が声をあげた時には、すでに矢は漂い出していた。
このままいけば、棚のうえにある目覚まし時計に命中する。
そこで俺は、また天使の言葉を思い出したのである。
『命のないもの、無機質を射るとね、そのものは君に向かって……』
すべてを思い出すまでもなかった。一瞬、ピンク色に染まった目覚まし時計が、弾けるように俺に向かって飛んできたのだ。
「痛ッ!」
まともに頭に当たったその時計は、俺の頭からアルコールの残滓を、きれいに吹き飛ばした。
完全に目の覚めた俺は、当然のように大声で叫んだ。
「な、なな、何てもったいないことに使っちまったんだ!
矢は、あ、あと一本しかないじゃん!
そ、そうだ!」
手にした時計を見た俺は、急いでベランダに飛び出した。
道路を一本はさんだ、向かいのマンションの七階に、ちょうど今の時刻、俺が恋いこがれている女性が、窓辺にならんだ花に水をやりに現れるのだ。
俺がベランダに出た時、目当ての彼女は、最後の花に水をやるところであった。
動くな!
心の中で叫びながら、俺はあわてて最後の矢を放った。
白銀の矢はフワフワと頼りなく漂ていく。
これなら間に合う。
ホッとし、矢の行方を追う俺の目が、ギョっと見開いた。
あわてすぎて、狙いがわずかにズレていたのである。
このままいくと……。
「ひィ!」
俺はかすれた悲鳴をあげた。
彼女の隣室の住人であろう。
窓を大きく開け、盛大に喫煙しているおばさんにむかって、矢は向かっている。
寝グセのひどいおばさんは、鼻からドラゴンのように煙を吐き、首筋をぼりぼりとかいている。
矢は、そのおばさんへと、勇敢にも突き進んでいるのだ。
あ、当たるな!
俺は恐怖に引きつった顔で祈った。
神様! 神様! 神様!
当たれば、とんでもないことになる。
当たるな! 当たるな! 当たるな!
その必死の願いが通じたのか、矢はどうにかオバさんのいる窓をはずれ、マンションの外壁に当たって、あっ気なく消えた。
「あ、ああ、最後の矢が……」
俺は安堵と失望の入り交じった溜め息を吐き出した。
その瞬間、向かいのマンション全体がボッとピンク色に輝き、こちらにむかって……。
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