第6話 朝の人


 朝。

 あたしはバス停の前で、あの人を待っている。


 もちろん本当はバスを待っているのだけれど、心はこの時刻、このバス停の前を通り過ぎてゆく、あの人をまっているのだ。


 一週間前、あの人に、このバス停の前で声をかけてもらった時から、あたしの切ない恋が始まったのだ。


 「おはよう。かわいいお嬢さん」

 何気なく、あの人がくれた朝のあいさつと笑顔。


 あたしより、幾つ歳上なのかしら?

 同年代の男の子なんか比べものにならない、落ち着きと優しげな雰囲気をもったあの人。


 あたしの想いが届く日はくるの?


 でも、だめ。

 あの人と、あたしの間には、越えられない壁があるの。

  

 妻子。

 その言葉に、あたしの心を重く沈ませる。


 三日前の夕方。

 あの人が、奥さんと赤ちゃんを連れ、街を歩いている姿を見たのだ。

 綺麗な奥さんと小さな赤ちゃん……。


 そのときのことを思い出し、暗くなっていたあたしの眼が、光を取り戻した。 

 あの人が現れたのだ。


 あたしは緊張しながら、熱い視線を注ぐ。

 ダークグレーのスーツに身を包んだあの人。

 あたしの視線に気づいてくれるかしら。


 と、あたしは横から肘をひっぱられた。


「エッちゃん。バスが来たよ。早く乗ろう」

 一緒にバスを待っていた、同じサクラ組のコウジくんである。


 「う、うん」

 あたしは、もう遠ざかっていくあの人の背を見ながら、小さくうなずいた。

 そしてコウジくんに手を引かれ、『ぶどう幼稚園』とかかれた黄色いバスに乗り込む。


 「エッちゃん。なにを見てたの」

 「へへへ。内緒」

 隣に座ったコウジくんにたずねられ、あたしはニコリと笑った。


 あと十五年? 二十年? コウジくんが、あの人みたいにステキな男性になったら、結婚してあげてもいいかな。

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