後編

「あの……どうして、俺なんですか」

 あれから、俺と彼女は付き合い始めた、のだと思う。お互いはっきりと口にはしないし、ちゃんとしたデートも未経験だ。それでも見つめ合えば当たり前のようにキスするし、どちらかが求めればこうしてホテルにだって行く。

 だからこそ、聞きたかった。最初の口付けの理由を、彼女自身のことを、もっと知りたいと感じてしまったから。

「どうして、って?」

 眼鏡を外してベッドに腰掛ける彼女の肌が、蛍光灯のまたたきを滑らかに反射する。

「だって、合コンでも全然話せてなかったのに急にキスしてくるし、その日のうちにヤっちゃったし。……本当は、俺じゃなくても、誰でもよかったんじゃないかって」

「ふーん、そんな風に思ってたんだ……可愛いね」

 石鹸の香りが鼻先を掠めて、頭の中は衝動で埋め尽されていく。俺の髪を撫でて笑う彼女に、全部ぶつけてしまいたい。そんな気持ちを必死になって押し殺す。

「同類だって、思ったから」

「……え?」

 一瞬、意味がわからなくて、つい間抜けな声が口からこぼれてしまった。呆気に取られる俺を見て、彼女はまた愉快そうに目を細める。

「あのね……私、何事も経験しなきゃ気が済まないの。合コンで最初に話したこと、覚えてる?」

「お酒の限界に挑戦したって話、ですか?」

「そう。あれもその一つだし、そもそも合コンに参加したのだって興味本位だったの。想像だけじゃ、いい文章は書けない。何事も、ね」

「文、章……?」

「うん。私ね、実は将来、作家目指してるの。そういえば、言ってなかったね」

 二人だけの秘密だと、彼女は口に人差し指を添えてささやいた。

「ね、フミヤ君はさ、おかしいと思う? こんな私のこと」

「いや、その……変わってることは確かだけど、おかしいとは思わない、です」

「あ、今のやりとり、ちょっと文学っぽいかも」

 裸のまま、携帯にメモを取る彼女の目が、その夢への真剣さを物語っている。そこに俺が映る隙間は、果たして残っているのだろうか。それとも、そもそも俺そのものが、彼女の言ったというやつなのか。

「フミヤ君は私が吐いた話を聞いても笑わなかった。それに二十歳になったばっかりなのにタバコを持ってて、でも火の付け方は知らない。だから同じだと思った。好奇心に、頭を支配されてる側の人間」

「じゃあ俺は? あの日の夜も今も、スミさんにとってはただの経験なんですか? 文章の糧にするためだけに、俺と付き合ったんですか」

 彼女は何も答えない。いな、それが答えなのかもしれない。

「……幻滅した?」

「少し」

「ふふ、正直だね」

 また、鼻腔が石鹸の香りで満たされる。ぴったりと肌に押し当てられた体温の心地よさ。そこでようやく、抱きしめられていることに気がついた。

「付き合わせてごめんね。もう、最後にするから、お願い」

 導かれるままに、彼女をベッドに押し倒す。放射状に広がる髪が、月の綺麗だったあの日を思い出させる。

「お願い……失神するまで、私の首を絞めて」


 少しずつ、存在を確かめ合うかのように彼女の中に押し入って、鎖骨から首へと指を滑らせていく。細い。両手が余るほどに、か弱くて頼りなくて。下手をすれば、俺は一瞬で殺人者だ。

「……本当に、いいの」

「こんなこと、フミヤ君にしか、頼めない」

 怖い。やりたくない。そう思うのに、体は驚くほど心とチグハグで。抑えていた欲望が黒く全身を巡って、脳味噌がその喜びに打ち震えている。体重をかけて絞めれば絞めるほど、何かがたかぶっていくのを感じてしまう。

 彼女の額にじわりと汗が浮かぶ。苦しいに違いない。それなのに彼女もまた、経験できる喜びを双眸そうぼうの奥にたたえている。思考の中で駆け巡る文字列を眺めて、浸って、無邪気に微笑ほほえんでいる。

 狂っていた。彼女は文学に、そして俺は彼女に。

「は、はは」

 喉から乾いた笑いが漏れる。気を失った彼女の顔に、ポタポタと水滴が落ちて、流れてシーツを濡らす。

 緩めた両手で自分の顔を覆うと、あふれたもので窒息してしまいそうだった。

「……ん」

 数分で息を吹き返した彼女は真っ先に、泣く俺を見て優しく背中をさすってくれた。それが余計に泣かせるのだと、どうしてわかってくれないのだろう。

「気持ちよかった?」

 そんな無神経なことを聞いてくる彼女のことを、また少し嫌いになる。

「……最高で、最低の気分だった」

「あ、それいいね。凄く純文学って感じ」

「なんだよ、それ」

 思わず苦笑して、目頭を抑える。彼女から引きずり出した避妊具の膨らみは、確かに俺の狂気をはらんでいた。




 それから、二度と彼女に会うことはなかった。連絡先も消したし、大学内ですれ違うこともなく、そのままあっさりと卒業してしまった。

「狂愛の味、ね……」

 だから仕事帰りによった書店で、彼女の名前を見かけた時は心底驚いた。「本当になったんだ」という気持ちと、「題名から、明らかに自分がこの本の糧になっているのでは」という気まずさが混じり合って、なんとも言えない気分になる。

 手に取ればそれはずっしりと重く、印字された彼女の名前をなぞると僅かに凹凸が感じられた。その滑らかさに、彼女の首の感触をふと思い出す。

 買うべきか、と一瞬考えて、それはない、と考え直した。一円たりとも、彼女のふところに貢献なんてしてやるものか。彼女が愛して、狂って、紡いだ純文学に、俺はもう十分じゅうぶん寄与している。今更、俺がこいつに捧げられるものは、もう微塵みじんもない。それになにより、この本は俺の元恋敵だったのだ。

「何見てるんですか?」

「いや、なんでもない。お目当ての漫画、ちゃんと買えた?」

 同じ会社の後輩が、目に優しくない表紙の本を袋から取り出して花のように笑う。

「だーかーらー、漫画じゃなくってラノベだって何度も言ってるじゃないですか! 先輩って本当にこういうのうといですよね、文学部出身なのに」

「はいはい、ごめんごめん」

 目を輝かせてライトノベルの説明を始め出す後輩の後について、書店の扉から一歩足を踏み出す。

 彼女の残り香をかき消すように、一度だけ強く拳を握りしめて。俺は、先を行く後輩のかじかんだ手を、さりげなく取りポケットに入れた。


 見てくれだけ飾られた、美しい言葉よりも。あえて泥にまみれた汚い言葉を使って、遠く置き去りにした過去をののしるならば。

 本当に。純文学なんて、クソくらえ。だ。

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純文学なんて、クソくらえ。だ 御角 @3kad0

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