スルタンの台所 ~トプカプ宮殿料理人小話~
日崎アユム/丹羽夏子
スルタンをお支えする台所の話
新米が入ってくるのは毎年のことであったが、とりわけ印象深い後輩がやって来たのは、ハリトが三十路になる少し前の話だった。
まだあどけなさの残る可愛らしい顔立ちと、そんな顔立ちに見合わぬ頑健な身体をした、少年と青年の中間ぐらいの男子であった。確か十七歳だったか。栗色の髪に緑の瞳をしていた。聞けばルメリの生まれだという。スルタンに与えられた新しい名をサダムといった。
それだけならば特に珍しいものではない。スルタンは毎年異教徒の奴隷を多数囲い込む。特に容姿端麗で身体頑強な男児を求めていたから、彼のような若者はたくさんいた。
問題は、彼の口癖がこんな感じだったことである。
「どうして僕がこんな仕事をしなければならないんだ」
周りにいた同僚たちは、それを聞くたび、しん、と静まり返った。
「どうして料理なんか。僕は戦うために教育を受けてきたというのに」
そう、ここは台所、帝国の宮殿の厨房なのであった。
周りの同僚たち――すなわち料理人たちは、そんな不満を漏らす彼に白い目を向けた。当然だ。彼は自分たちの仕事を馬鹿にしている。自分たちがどんなに一生懸命食事を用意しているのか、彼はわかっていないのだ。
ハリトとしては、彼の気持ちはわからなくもない。
ここにいるのは全員同じ立場の奴隷だった。スルタンの軍隊の精鋭として集められて、学問と武芸を修め、神への信仰を明らかにした、出世して帝国の中枢を担うための奴隷だった。
彼がふるさとを出た時に思い描いていた将来図は、きっと大剣を奮って華々しい戦果を上げることだったのだろう。そう思うと、ハリトも少し気の毒に思った。
こんな時、先輩のアフメトから貰った手紙を読み返す。
――我々の仕事は名誉のある仕事である。スルタンが直接召し上がるものを作るのである。スルタンの生命を形作る栄誉にあずかったのであり、また、スルタンの賓客をもてなすにふさわしい午餐をととのえて政治を支える立場である。けして侮るなかれ。さすればそなたの道は開けるであろう。神は偉大なり。
ハリトは先輩としてサダムにそういうことを教えてやらねばならぬ。だが、サダムはそういう道理を理解するには少し若すぎるのかもしれない。まだまだ入ってきたばかりの新米だ。多少の愚痴は大目に見てやろうではないか。
「ハリトよ」
同僚が、茄子を倉庫から運び出しながら、いかめしい顔で言う。
「お前、あのこぞうに甘いのではないか。殴ってでも根性を叩き直してやれ。俺たちの仕事はそういうものではないのだと、体でわからせてやるのだ」
ハリトもまた玉ねぎを抱えた状態で苦笑した。
「まあまあ、よいではないか。いずれわかるさ」
「そうか?」
恥ずかしいことに、ハリトも若い頃はサダムと同じことを考える蒙昧な若者であったのだ。サダムほど威勢はよくなかったので直接口に出したことはなかったが、アフメトには見抜かれていたのだな、としみじみ思った。
ハリトとサダムの仕事は茄子の中をくりぬいて米と玉ねぎを詰めるものであった。野菜の詰め物は時のスルタンの大好物であった。鶏に米を詰める料理もあったが、肉はまた別の担当がいる。
サダムは今日も不満げな顔で玉ねぎを刻んでいる。
「おもしろくないか」
ハリトがそう尋ねると、サダムは素直に「はい」と答えた。
「料理など女のするものではありませんか」
「本当にそう思っているのか?」
たかが玉ねぎ、されど玉ねぎだ。多量の玉ねぎを刻むのには体力と集中力が必要である。刻むのに使う腕力、包丁の入れ方、慣れねば涙が出てくる、出来上がったものを巨大な鉄の鍋で蒸すがその鍋も重い――こういう時、ハリトは料理が選ばれた男子がすべきだと痛感するのだ。
サダムが黙った。彼も、どうして自分たち精鋭が料理を作らねばならないのか、本当はもう薄々わかっているのだろう。
「前言は撤回してもいい」
ハリトは穏やかな声でそう言った。
「引っ込みがつかないと思っているのならば、心配することはない。若さゆえの衝動に任せて余計なことを言ってしまうのはよくあることだ。みんな通ってきた道さ」
サダムはなおも何も言わなかった。
ちらりと横顔を盗み見る。
その顔立ちは端正で、かまどの炎に照らされて白い頬が輝いて見えた。そしてそこに流れる汗も、本当は彼が一生懸命働いている証拠だ。
「お前はよくやっているよ。がんばっている」
「そんなことは言わないでください」
「いや、何度でも言おう。それが俺の務めだ」
少しの間、ふたりとも黙った。玉ねぎを刻む音だけが響いた。まな板がトントンと一定の拍子で鳴る。作業に慣れてきたふたりの手だとわりと静かに聞こえた。
「ハリト先輩はひとがいいんですね」
「そうかな」
「先輩は自分の仕事に疑問をもったことはないんですか」
「あるよ。あるけれど、時の先輩、お前にとっての俺が諭してくれて、心を入れ替えたのだ」
「その先輩は今どこで何をしているんですか?」
その問いには、ハリトは答えなかった。
もう一度、サダムの顔を見た。
彼は手を止め、どこか不安げな顔でハリトを見ていた。
自分の将来像を思い描けないというのはなかなか怖いことだろう。直属の上司や先輩から示唆を受けてこの先がどうなるのか考えていきたいはずだ。
この台所に年寄りは少ない。料理長やその直属の部下たちは『歴戦の猛者』であったが、今こうして単純作業を繰り返している人間は途中で消えていく。
その意味を、サダムは知りたがっている。
教えてあげないのは意地悪かもしれなかったが、ちょっとぐらいはいいだろう。ハリトはスルタンの食卓を作り出す自分たちの仕事に誇りをもっている。そんな自分たちの立場に不満をもっていたサダムを十割肯定しているわけではない。ちょっとは反省しろ、の意味を込めて何も言わずに時を過ごした。
さて、それから半年ほど経った頃であろうか、人事異動があった。
ハリトのもとに辞令を書いた紙が届いた。ハリトはその命令書を見てふむふむと頷いた。おおむね予定どおりだ。
隣にいたサダムがハリトの手元を気にしている。おそらくハリトの行き先が気になるのだろう。だが彼も一応一人前の青年だ、他人あての書類を勝手に覗き込んではいけないことぐらいわきまえているのだ。
「あの、ハリト先輩」
十八にもなって上目遣いで問うてくる。それを、ハリトは可愛いと思った。最後によい後輩、よい弟子をもった。
「宰相は何て?」
ハリトは意味深長に微笑んだ。
「少し頭を冷やして、身辺整理をしたいと思う。心の準備が整ったら、お前にもゆっくり説明しようと思う」
サダムはしばし呆然としていた。
「この台所を出るんですか?」
「ああ」
「恐ろしいところに行かされるのですか」
「何を慌てている」
「僕には説明できないような仕事が? いったいどこで何を」
「今はまだ秘密だ」
「先輩」
「なに、恐れることはない。とりあえず、今日は今日でちゃんと仕事をしよう」
今日も詰め物作りが始まった。
サダムはずっと沈黙していた。時々涙を浮かべていたのは玉ねぎのせいなのか。
あの生意気な若者がこんなに自分になついてくれた。それに今は毎日真面目に玉ねぎを刻んでいる。自分は無事に仕事をなし、継承し、卒業していく。
アフメトもこんな気持ちだったのだろう。ここを旅立っていく時、彼もまた今の自分と同じ気持ちで手紙を書いたのだ。
その晩、ハリトもまたサダムに手紙を書いた。あまり使われないが祝宴では重宝される特殊な調理方法のいくつかの説明書きと、アフメトが書いてくれたものを改めて自分の手で書き直したものをあわせて一通の手紙とした。
――我々の仕事は名誉のある仕事である。スルタンが直接召し上がるものを作るのである。スルタンの生命を形作る栄誉にあずかったのであり、また、スルタンの賓客をもてなすにふさわしい午餐をととのえて政治を支える立場である。けして侮るなかれ。さすればそなたの道は開けるであろう。神は偉大なり。
スルタンの台所ほど名誉な仕事があろうか。戦争の時にしか役に立たず、平時は半分穀潰しのような軍団とは違って、我々は常日頃スルタンを守ってきたのだ。
台所卒業の日、ハリトはサダムに手紙を手渡しした。込み上げてくるものがあったらしいサダムは、とうとうわっと泣き出した。素直だ。だからこそ拗ねていたのだろう。しかしもう大丈夫だ。彼はもう自分の仕事の何たるかを理解したに違いない。彼に必要なのはもう作れる料理の種類を増やすことだけであって、自分はもうお役御免だ。
「先輩、また会えますか」
「もちろん。生き別れるわけではないよ。ただ職場が変わってしまうから難しいだろうけれどね。お前が求めてくれるのならば時間を作ろう」
「教えてもらえませんか」
サダムの緑の瞳が、じっとハリトを見つめている。
「先輩はどちらに配属になったのですか」
ハリトは笑った。
「近衛兵団のスルタンの護衛官だ」
サダムが眉間にしわを寄せた。
「武官ではありませんか」
「そうだとも。重い食材を運んで作業するための体力と胆力を身につけた者は、武官として出世するのだ。ましてスルタンの食を守る忠誠心はどれほど高く評価されるか」
彼は自分の額に手を当てた。
「なんだ! では僕はあと十年ここで修業を積めば当初の希望のとおりに配属されるということではありませんか」
「そういうことだ。黙っていてすまない、少し意地悪をしたかったのだ」
ハリトは笑ってサダムの肩を叩いた。
<おわり>
スルタンの台所 ~トプカプ宮殿料理人小話~ 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid
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