第3話
翌日は大雨だった。まあ、世界中を放浪していたのなら、離島の洞窟で眠ることなど大したことではないだろう。
約束の三日後の夜も雨は止まなかった。バイトの掛け持ちで疲労が溜まっていたせいか、帰宅して一休みしていたら寝落ちした。
翌朝、妻から電話があった。
「おばあちゃんの容体はどう?」
「ごめんね、バタバタしてて連絡できなくて。キヨくんとはうまくやってる?」
「三日前から帰ってないんだよね」
妻からの返答はない。
「ええと、タイラさんの家に居候してるみたいで、もしもし、もしもし。あれ? 電波…?」
ぶつん、と電話は切れた。
四日目の夜は入港日のバイトが立て続き、出発する頃にはすでに日は落ちていた。
海岸通りから山道に入る途中で、漁師の
「夜釣り?」
説明するのが面倒で、「そうだ」と言った。
彼は首をにょきっと伸ばし、後部座席を見やった。
「釣り竿、貸そうか?」と苦笑した。
「忘れたわけじゃない。タコを突こうと思ってるんだ。銛は持ってる」
「なるほどね。ていうか、あのヒッピーの彼、帰っちゃったんだね」
「キヨヒトが帰った?」
「知らなかったの?」
「ああ。ここ最近はうちには泊まってなかったから。何か話した?」
「いいや。遠目だったし、来島のときとは打って変わって、人目を隠れるように乗船していたよ。まあでも、あの印象的な髪型は間違いようがないでしょ」
「まるで逃亡者みたいだった?」
「そんな感じだった」
「明日の食事会には来るんだろ?」
「ああ。行くよ」
「じゃあ、また明日」
と車を発車した。
洞窟内はもぬけの殻だった。本人もその荷物も、展示されていた頭蓋骨さえもすっかりなくなっていた。喉の渇きを感じ、洞窟を出て入り口の巨木にもたれて缶ビールを開けた。昨夜の雨の雫が、缶蓋でカリンバの音色を弾いた。すると、草むらから山羊がにゅっと首を出した。驚いている様子はなかった。人間に慣れた野山羊など聞いたことがない。ジャーキーを放ると、草むらから首だけ垂らしてもぐもぐと食べた。黙々ともしゃもしゃと。それを見ながら僕もジャーキーを齧り、ビールを煽った。
「お前、肉も食うのか?」
ともう一欠片ジャーキーを差し出した手に噛みつかれた。
「痛え!」
と手元の石をつかみ、こめかみ目掛けて思い切り叩きつけた。すると、山羊は山羊らしくない唸り声をあげた。ぐるるるるぅと牙をむき出し、熱そうなよだれを垂らした。僕はリュックから長い銃身を抜き、山羊の頭部に先端を当て、一撃で撃ち抜いた。グワーン、と夜の森に響く音に野生動物らがざわめいた。ぐったりした山羊の角を掴んで首を持ち上げると、眉間から白い煙がたなびいた。
煙を吐く肉を菜箸でひっくり返す。
「まあ、いっぺえあるから、たんまり食え」
と飯島さんがちゃぶ台をとん、と叩くと、奥さんが影武者のように立ち上がり、追加の肉皿を持ってきた。
「そういえばお前ん家の居候、帰ったんだってな」
枝野が言った。
「ああ。昨日の船で帰ったみたいだね」
僕は焼酎ロックをすすった。
「他人事みたいに言うじゃねえか」
「居候先をタイラさん家に移したんだ。うちに荷物を取りにきたとき、毎晩刺し盛り三昧だったって自慢してたよ」
「嘘こけ、奴はビーガンだぜ?」枝野は眉をひそめた。
枝野は菜食主義者だが、島原産の肉だけは例外だとのこと。
「がっはっは!」
飯島さんが笑った。勢いで外れた入れ歯がちゃぶ台で跳ねた。それを奥さんは拾い、あーと口を開けた飯島さんにはめてやった。
「まあ、おめがた若えもんは幸せものだ」と飯島さんは富山の日本酒を枝野の升に注いだ。「こんだけ新鮮な山羊をたんまり食えるなんてさ。戦時中はまず考えられなかったぞ」
「飯島さんはまだ戦争中っすもんね」
と枝野は頭を垂れ、升から溢れそうな日本酒を犬のようにすすった。
「敵! 潜伏中と判断! 即! 戦闘配備につけ! は、は、は、は、…うぃ、ひっく」
「そう言えば、前回は君が山羊を仕留めたんだって?」
と朔ちゃんが目配せした。
「飯島さんの援護をしただけだよ」
「いやいや、おめえは筋がいい。そのうち一人立ちできっぞ。なあ、お前、あれ、もう、乾いたんでねえか? こいつに渡したれ」
と妻に首を傾けた。
「はいはい。小銭入れにするとねえ、なんかねえ、お金が貯まるみたいでねえ」
奥さんは隣の部屋に入り、物干し台に干した山羊の金玉袋をごしごしとしごいた。
「まだ乾ききってませんね」と指の臭いを嗅いだ。
「ほうか。てか、おめえ、嫁とはうまくやってんのか? 悪いこと言わねがら、早よ、ガキっこ仕込んじめえって。ほんだら旦那が少しばかり悪さしても、目っこ、つぶるんだがらよ」
「ええーっ、どうすかねえ?」
僕は笑った。
───人間は神さまの意思でこの世界に産み出される。物理的に操作できると思うのは人間の傲慢だ───By キヨヒト
僕は「ベロベロベー」と肉をひらひらさせた。
妻の笑い顔が浮かんだ。
「耐え難きを耐え~、忍び難きを忍び~」
「今夜も飯島劇場の開幕ですか」
枝野は、がっはっは、と笑った。
「玉音放送よ、まさに玉音放送。あれは実に、実に意味不明だったな。時を同じくして、おいらは夏のパプアニューギニア戦線。あーれは、実に、実に、悲劇的な夏だった。まさに終戦直前、おいらの部隊は…」
「あ~あ、食った食った」と枝野は伸びをした。「やっぱ新鮮な山羊肉はうめーわ。ていうか、キヨヒトとはゆっくり酒でも呑み交わしたかったなぁ」
「どうせクソみたいな反核話でもすんだろ? ていうか、お前らは自分に酔ってるだけなんだよ」
「お前だって、今、酒で酔っ払ってんだろうが」と枝野は僕の頭をごついた。「毎晩飲み明かしてたんだろ? 少しは啓蒙されろってんだよ」
「そういや、ベジタリアンは建前で、毎日吉牛を食べてたって言ってたぜ」
「お前、いい加減にしろよ」と枝野は箸の先で肉をゆらゆらさせた。「適当な噂、広めんなよ。あいつは本物だ。十年以上も世界中を旅しながらヨーガと瞑想とビーガンを続けてきたんだ。お前みたいなヘタレとはわけが違うんだよ」
「自分が病気になりたくないだけだろ」
と僕は焼肉を頬張った。
「は? なんだって?」
「自己保身だろ? 巡り巡って自分に返ってくるのが嫌だから啓蒙活動してるだけだろうが。一に健康に、二に健康、三、四がなくて五に健康。三、四が余ってるから啓蒙活動に回してるだけだろうよ。相手を啓蒙できたら気分もアッパーになって、健康効果も高まるって期待してんだろ。ただの健康オタクじゃねえか」
枝野は窪んだ眼窩をさらに陰らせた。
「ここまで救いようがないバカだったか。病気になりたくない? 病人と何年も過ごす人間の気持ちなんて、お前にゃ生まれ変わってもわからんのだろうな」
陰鬱な声で言った。
「お前さ、人のことを病気と思う前に、自分が病気かどうかを疑ったほうがいいぜ?お前はぜんぜん自分のことをわかっちゃいいない。何をしたら自分が気分がよくなるかを知らない。この頭のなかに飼ってる寄生虫の言いなりなんだよ」と枝野の頭を割り箸でぴしゃぴしゃ叩いた。「いいか、お前、このおばさんを見てお前、何も感じないのか?」と箸先を飯島さんの奧さんに向けた。仮面が張り付いた彼女の笑みが固まり、少し揺れた。
「──は? おばさんがどうしたって…」
「ほれ、おめ、なにしたって。酒っこ切らしてっぞ」
「はいはい。おかわりですね」
奥さんは元の張り付いた笑顔の仮面で酒を注いだ。
はははははははは!
「クールー、クールー、パッ!」
と僕は妻に向かって、いないいないばあをするように両手をハスの花にした。
「始まったな」と朔ちゃんは苦笑いした。
「一体……何の話だよ」
枝野の長いまつ毛が子鹿のように震えた。
「お前の有能な脳みそは、フル回転している。洗脳を解かれないためにフル回転だ。そういえばお前、不衛生で狭苦しい箱に閉じ込められた豚だか鶏だのがストレスフルな叫び声を上げているドキュメンタリー映画とかよく見るって言ってたよな。だけど、その手の食肉工場に密着取材をしたりはしないんだろ。こたつでみかんを食いながらシェアして、善人気取っておやすみ、だろ? そんなお前に、今宵リアルな食肉工場ってやつを見せてやろうではないか。ねえ、飯島さん、地下室見せてやっていいですよね?」
はははははははは!
「よし! オーケーがでたぞ!」
「まあ、うちはこじんまりした食肉店なもので」と妻が言った。「大手産業に比べたら、恥ずかしいくらいささやかなものですが、利益追及のための遺伝子組み換えもしてませんし、なにしろ十年以上、添加物を一切摂取していない上級品なんですの」
はははははははは──…っひっく──
ギョロ目、ギョロ目、ニコニコ、ニコニコ。
上唇と下唇に焼肉を貼り付けると、わしは錬金術師となるのだ。
腹話術師となるのだ。
「我、獣なり! 我、肉食うものなり!
汝、求めよ、間違えよ、負けん気の強い猫ちゃん!
我、獣なり! 我、肉食うものなり!
汝、求めよ、間違えよ、負けん気の強い猫ちゃん!」
「さあさあ、地下にご案内しますね」
ギョロ目がニコニコと枝野の肩をぽんと叩く。
じゅっと黒焦げになる肉。
ピンと擦れるカリンバの音。
銀歯をむき、ニッと笑う我が妻。
草を食む 肉を食う 音骨 @otobone
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