時は昭和。太平洋戦争がまだ遠い過去でなかった時代のお話です。
主人公の次郎の友人、京子は被爆により十三歳の時から右足が不自由で動かず杖をついています。と、くれば悲劇のヒロインのようになるのかと思いきや、どっこい彼女は夏目漱石のいわゆる「強火」のファンで講師を泣かせてしまうほどの変わり者。
誰もが少し敬遠してしまう彼女を、けれど次郎はどこか面白がり、そんな彼を京子も気に入っているようで、周囲からは恋人かと思われていたようですが、あくまで二人の関係は友人のまま。
やがて京子の飼い犬ヘクトーを引き取ることになった次郎が河原に散歩に出掛けて出会ったのは——。
原爆という重いテーマが根底にありながら、どこか漱石とも重なる人間嫌いな京子と彼女を見守る眼差しは温かく、辛い時代や出来事の前にも人の絆や想いの大切さを改めて感じさせてくれます。
誰もが忘れえなかった広島のあの悲劇を、少し不思議な出来事と穏やかな筆致で包み込む優しく温かな物語でした。
自分に正直に生きる。
それは言葉としては理想的に思えても、実践すると何かと角が立って周囲からは厭われる。それが人の世界。
京子の在り方は『草枕』の冒頭を彷彿とさせるようでした。そして寄り添った犬たち、そこに自分の居場所と人生を見出しているようでもあり。
次郎視点で展開されるこのお話を客観的に眺めると、京子が次郎に漱石先生を見ていたという話にもに感じられます。夏の夜の京子の助言は、きっとヘクトーにまつわる記憶に基づいたものでしょう。
酷な身の上ながら陰鬱な話ではありません。
人の世は不都合でそう易々と生きられるものはないけれど、ゆったりと眺めれば小さな救いがある。そんな夏の夜の涼やかなお話です。
それこそ河原での京子の無邪気な振る舞いは、『草枕』の冒頭の続きに描写される、人の心を豊かにする芸術の尊さを象徴しているかのようでした。
素晴らしい作品です。
ありがとうございました。
主人公は大学を出て、教師をしている男性。男性には日課があった。飼い犬を河に散歩に連れていくことだ。夏の夜は日中よりも少しは涼しい。
主人公の飼い犬は雑種だったが、聡明な犬だった。この犬の飼い主は元々、主人公が飼っていたのではなく、大学時代の知人女性が拾ったものだった。夏目漱石が好きだった彼女は、広島に実家があり、幼い頃に被爆の症状が出た。彼女はそのために若くして片足を失い、杖を突いて生活していた。それでも明るい彼女は、自分は杖を使う前は足が速かったと、主人公に自慢していた。
盆の夏の盛りに、主人公がいつも通りの道を犬と散歩していると、彼女に会った。犬は命の恩人であり、元の飼い主に会えた嬉しさで彼女に抱きつくが、主人公は思いの外冷静だった。そして彼女からある忠告を受ける。
広島弁の彼女の武勇伝や、快活な性格に爽やかさを感じました。
是非、御一読下さい。