落とし物<眼鏡編>
鐘古こよみ
落とし物<眼鏡編>
ある暖かな春の日の午後、その電話はかかってきた。
「はい××交番です。どうしました」
『あの、落とし物をしてしまいまして……もしかしたら、そちらに届いていませんでしょうか』
「落とし物の問い合わせですね。何を落とされたんですか?」
『それが、眼鏡……』
「眼鏡ですね」
『以外を』
「以外? えっと、どういうことでしょう。詳しくお願いします」
『つまり、眼鏡以外を全て、落としてしまったのです』
「いや、全てといっても、色々あるじゃないですか」
『ありません。全ては全てです』
「うーん。持ち物全てを、鞄ごと落としましたか?」
『いえ、鞄は好きじゃなくて、持たないんです。お金は直接ポケットです。今もまだポケットに入っていると思います。幸いスマホは家に忘れていたので』
「持っていたのはお金だけで、それは落としていないんですね」
『いいえ。眼鏡以外の全てを落としたって、さっきご説明したじゃありませんか』
「うーん、あなたねぇ。じゃ、身に着けているものを全部落としたって意味ですか? あなたは素っ裸なことに気付かないまま、家に帰ったんですか? 眼鏡以外全ての一点張りじゃあ、そう考えるしかなくなりますよ。違うでしょう?」
『お巡りさん、変な想像はよしてください』
「え! いや、そうじゃなくてですね。もしかしてこれ、イタズラですか?」
『まさか。本当に困って、真面目にかけているんです』
「だったら真面目に答えてください。結局、何を落としたんです?」
電話の向こうで相手は少し沈黙した。
『驚かないでほしいのですが、簡潔に言いますと、体です』
「体?」
『服を着て、靴も履いてます。素っ裸ではありません』
「あなたねえ。声からして、大人でしょう。こんなくだらないイタズラはやめなさい。交番も忙しいんだ。あまりしつこいと、こっちもそれなりの対応を取りますよ」
『待ってください! 本当に真面目な話なんです。体が無いと生活に困ります』
「そりゃ困るでしょうね、こんな風に電話をかけることもできないんだから。ほら、やっぱりあなたは、警察官をおちょくって楽しんでいるだけだ」
『違いますったら、本当に! スマホならハンズフリーで通話が可能でしょう?』
「つまり、眼鏡が電話をかけているとでもいうのですか?」
『お恥ずかしながら……』
「恥ずかしがる眼鏡なんて聞いたこともないですね。切りますよ、いいですね」
『待ってください! でも、その反応からすると、届いていないんですね?』
「何がですか」
『だから、体です』
「届いているわけないでしょう。体が落ちていたら普通は救急車を呼びますよ。そんなもの、誰が交番に届けるっていうんです?」
『あっ!!』
自称眼鏡の通話相手が大きな声を上げたので、警察官は受話器を耳から離した。
『そうか、言われてみればその通りだ! ありがとうお巡りさん、気づきませんでした! だからいつも見つからなかったんだ……』
「良かったですね。じゃ、切りますね」
バカバカしい。内心で文句を垂れながら、警察官は今度こそ本当に電話を切ろうとした。だが受話器を耳から離した一瞬、気になる言葉が聞こえた。
『病院にもなければ、新しくするか……』
その言葉が妙に胸に引っ掛かり、警察官は受話器をもう一度耳にくっつけた。
「なんですって?」
『え?』
「今、何か言いましたよね。病院にもなければナントカって」
『ああ、新しくするか、って言ったんですよ。本当に見つからなければね』
だが、相手が落としたと主張しているものは。
「あの、体をですか?」
『そうですよ。生活必需品ですからね。一日だって無いのは困ります』
これが眼鏡を落とした話であれば、おかしなところは何もない。警察官は、自分がずっと聞き間違えをしていたのではないかと、己を疑いさえした。そこで、確認のつもりで一つ尋ねてみた。
「新しいものを手に入れた後、落としてしまった方が見つかったら、どうするんですか? 予備として手元に置いておくとか?」
『予備? いやいや、二つもいりませんよ。巨大冷凍庫があるならともかく、これからの季節は臭うでしょうしね。放っておきますよ。実際、たまに発見されて騒がれるんですが、知らんぷりしています。仲間もみんなそうですよ。……って、お巡りさん相手にこの話はまずかったかな。これ、録音されてます?』
とっさに何も答えられなかった。
眼鏡に巨大冷凍庫は必要ないし、これからの季節も臭わない。
やはりイタズラだと思う一方、背筋を寒気がぞわぞわと這い上がる。
『そうだ、思い出した。お巡りさん、駅前交番の眼鏡の人ですよね。その黒縁より僕の方が似合うのになあって、前に思ったんですよね。候補に入れますね』
プツ。ツー。ツー。
電話は突然切れた。
腰の無線機が突然作動し、近所で身元不明の遺体が発見されたと報告してくる。
警察官はぎこちなく手を上げ、自分の黒縁眼鏡の縁を撫でた。
<了>
落とし物<眼鏡編> 鐘古こよみ @kanekoyomi
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