冷めても美味しい珈琲のように
碧月 葉
冷めても美味しい珈琲のように
青一色の巨大な水槽の中を、光に照らされたジンベエザメが悠々と泳いでいく。
「なんだか圭吾に似てる」
「僕に? のんびりしてそうなところが? それともデカいところが?」
「どっちもかな。でも見ていてなんか癒される」
それを聞いた僕の表情は玲奈に見られてはいない。彼女は目を細めて魚たちを眺め続けていた。
巨大な水槽をぐるりと取り囲む通路からは、ジンベエザメのほか、シュモクザメやエイ、クエなど大きな魚たちがゆったりと回遊する様子がよくみえる。
「『アクアリウムセラピー』ってのがあるくらいだから、リラックス効果は確かだろうね。この水族館はクラゲの展示にも力を入れているらしいんだ。クラゲのあの動きは見ていると自律神経が整うっていうから、それもお楽しみに」
「クラゲかぁ。確かに、あのゆらゆらゆる〜い感じは見ていて和むわ。海の生き物って良いよね、何だか家に水槽置きたくなってきたなぁ」
「それはオススメしない。玲奈、世話できないだろ。サボテンだって枯らしたのに」
「う……。あっ次『ふれあい水槽』だって、なまこって触ったことない、行ってみよう」
館内案内のパンプレットを覗いた玲奈は、僕の手を引いた。
他の人から見たら、僕と玲奈はどんな関係に見えるだろう。
僕らは恋人同士ではない。
敢えて言うなら親友同士だ。
十年以上前、高校生の時には付き合っていたが、進学する際お互い良い思い出だけを持ったまま別れて友人に戻った。
それから、なんやかんや勉強だの就職だの恋愛だの相談し合い、お互いフリーの時には泊まり旅行なんかにも行く気のおけない間柄となって今に至る。
「うわぁ、見てみてヒトデ! 結構ボディ硬いよ、触ってみなよ」
子どもに交じってはしゃぐ姿からは想像できないが、玲奈は外資系金融会社の営業職としてバリバリ働くキャリアウーマンだ。
普段は仕事に全力投球、中身も外見も磨くことに余念がなくお洒落で格好いい。
恋にも積極的で、いつも成長志向のイケメンバリキャリ男子が彼氏だった。
そして、直近の彼氏とは順調で本来なら今月結婚式を挙げる予定だったんだ。
「彼、浮気していた。『浮気だったら君もして構わない』って言われたの。どうしたら良いんだろう……」
ふた月前の深夜、掛かってきた電話に僕は絶句した。
どうしていつもライオンみたいな彼氏を選んでしまうのだろうとは思っていたけれど……婚約中に堂々と浮気して開き直る奴だったなんて。
「玲奈はどうしたいの?」
怒りが込み上げるなか、できるだけ落ち着いた声で彼女に訊ねた。
「分からない。彼のことは……まだ好き。でも浮気は嫌。他の友達に相談したら『彼みたいな出来る男性は滅多にいないからちょっとした浮気なんて気にするな』って言うの。『許せない』と思う私がおかしいのかな……」
声から彼女の涙が見えるようだった。僕は「他の友達」の首を絞めてやりたくなった。
「そんな事ない。好きな人が自分以外の相手に触れるのを受け入れられないのは当然だと思うよ。……それに、価値観が違い過ぎる相手とずっと一緒なのは、僕だったら辛いかもしれない」
自分で言っておきながら、色々と苦い言葉だった。でも、彼女問いに正解はないから僕は気持ちを素直に伝えた。
結局、玲奈はその男と別れた。
そして僕は、傷心の彼女を能登旅行に誘った。
北陸地方に住んでいる僕は金沢駅に到着した彼女を自家用車で迎えに行き、波打ち際を走れる千里浜なぎさドライブウェイを通って白米千枚田を見に行き海と黄金色に色づいた棚田の風景を楽しんだ。
そして、今は七尾市の「のとじま水族館」を訪れている。
イルカやペンギンが頭上を泳ぐトンネル、アシカのショー、円柱水槽をグルグル回るアザラシ、幻想的に漂うクラゲ。
最初は少し無理をしているようだった玲奈の笑顔が次第に自然なものになっていくのが嬉しかった。
売店で小さなジンベエザメのぬいぐるみをお土産に買って水族館を後にした僕らは、一息着くのにカフェに立ち寄った。
ボサノバが流れるナチュラルな雰囲気の店内、大きな窓からは海が見える。
「素敵なお店だね」
「うちの学生に教えてもらったカフェなんだ、自家焙煎のコーヒーがオススメだよ」
僕の言葉に彼女は両眉を寄せた。
「うーん最近、コーヒー苦手なの……前の彼がコーヒーに煩くて『コーヒーは熱いうちに飲んでしまうもの』って猫舌の私に無理強いしてさ……確かに冷めたら美味しくないんだけど」
「だったら尚更、また好きになって欲しいな。ここの本当に美味いからちょっと試してみなよ。ダメだったら、残りは僕が貰うから」
高校時代、玲奈はコーヒーが好きだった。だから僕もコーヒーが好きになったのに……。
つまらない男のせいで苦手のままでいて欲しくなくて、僕は少し強引に勧めた。
「わ、コーヒーなのにどこか花みたいな良い香り。…………! 美味しい」
「でしょ」
彼女の顔が輝いた。
新鮮な空気を吸って、綺麗な景色を見て、美味しいものを食べて飲んで、心の澱は全て過去にしてしまうといい。
一緒に頼んだキャラメルチーズケーキを、綻んだ表情で口に運ぶ玲奈をみて僕は密かに幸せを噛み締めた。
「あれ、凄い冷めても美味しい……」
「品質の良いコーヒーは味に変化はあっても、風味が落ちる事はないよ。むしろ熱々じゃない方が味がよく分かるんだ。時間が経つと雑味が出て不味く感じるコーヒーは未成熟の豆だったり虫食いだったりとイマイチな時だね」
猫舌の彼女を痛めつけた誰かさんへの対抗心か、僕はつい聞かれてもいない蘊蓄を語ってしまった。こういう所、まだ大人になりきれていないとがっかりする。
でもまあ良いか。
「そうなの? ふふふ、またコーヒーが好きになりそう」
という玲奈のセリフが聞けたから。
一日が終わり、僕らは眠りにつく。
和倉温泉の老舗旅館の一室にはピッタリと二つ並んで敷かれた布団が。
「ちょっと寒い」
彼女が分かりやすく甘えたから、僕は隣の布団に移動して浴衣で横たわる彼女の背中を優しく抱きしめた。
「あったかい」
満足したような声。
石鹸の香りにほんのり彼女の肌の匂いが混じる。柔らかさと心地よさを僕は全身で感じた。
「誘ってくれてありがとうね。棚田も綺麗だったし、水族館はめちゃくちゃ楽しかった。能登の恵みたっぷりのお食事も濃い温泉も最高だった。心のデトックスも完了してエネルギー満タン。また、月曜から仕事も恋も頑張れそう」
「良かった。大丈夫そうにしていたけど、イマイチ元気なかったからね」
「よく気がついてくれました。流石、圭吾。お母さんみたい」
「元気が出て何より。お母さんは一安心です。……ついでにお母さん枠でお節介をいうと、次に男を選ぶ時は…… バリキャリというか野心家タイプはやめた方が良いよ。玲奈との相性あまり良くないと思う」
「分かってる。今回のでもう懲りた。……でもさ、圭吾が悪いんだよ。高校時代に私のハードル上げちゃったからさ。適当な男じゃ妥協できなくなってる」
「珍しいな、それって褒め言葉?」
「悔しいけどね」
「…… 玲奈なら大丈夫。僕が保証する。これから良い出会いは必ずあるよ」
彼女は、僕の手首をキュッと握った。
二人の体温がほんの少し上がった気がする。
でも、キスはしない。
大切だから。
例え君が今それを欲していたとしても。
我ながら狡くて我儘だとも思う。
まるでコーヒーのように、冷めてもなお甘さが際立つこの想い。それを持て余しつつあるのを僕も気づいてる。
けれど、求めればただぬくもりだけを分け合える関係を僕は壊したくは無いんだ。
まだ、今は。
冷めても美味しい珈琲のように 碧月 葉 @momobeko
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