第4話 吉子の野望
「座りなさい」
家に帰ってからしばらくして、吉子は進をリビングルームに呼び出した。進が怯えた様子で、黙って吉子の前に座る。
「今日ママは、みんなの前で大恥をかきました。何故ママが大恥をかいたか、言わなくても分かるわよね?」
吉子は淡々と進に話しかけた。進が椅子に座ったまま黙って下を向く。
「あんたはクラスの中でも、一番走るのが速かった。それやのに何よ? 今日のあの走り方は!」
吉子が最後、声を荒らげた。進は黙って下を向いたまま、表情を全く変えない。
「顔を上げなさい。ママの目を見なさい!」
表情を変えず、下を向いたままの進に腹が立った吉子は、再度声を張り上げた。進がゆっくりと吉子の方へ視線を向ける。
「――ごめんなさい」
進が半泣き顔で、吉子の目を見た。怯えているのか、体は震え、唇も僅かに痙攣している。だがそれでも、吉子は容赦しなかった。
「悔しくないん? どこの馬の骨かも分からんような貧乏人に負けて。このままやったら、将来立派なヨウコウの経営者になれんわよ!」
吉子の言うヨウコウは、越智家が営んでいる家業のことである。正式名称を
進が再び下を向く。吉子は覗き込みながら、今度は諭すように言い始めた。
「すすむちゃん。ママはね、すすむちゃんのためをおもっていっているの。わかるでしょ? すすむちゃんのために、きょうママはみんなのまえでわるものになったんよ」
吉子が進の目をじっと見る。すると進は、堰を切ったように泣き始めた。
「――ほら。男の子なんやけん、もう泣かんのよ」
吉子が声のトーンを戻し、進に言った。
「泣かんといてって言ってるでしょ!」
先程のように、今度は声を張り上げた吉子。進が泣くのをやめ、ゆっくりと顔を上げた。表情がとても引きつり、血の気が引いているのが見て取れる。
吉子はその様子を見て、僅かに罪悪感を覚えた。だがそれを振り払い、進の目を真っ直ぐに見る。
「男の子やのに、こんな弱いままではだめだわ。それに貧乏人に負けたなんて赤っ恥よ。明日から毎日、ママと公園で走る練習をするわよ。いいわね?」
吉子は自分にも言い聞かせるようにして、進に早口で言った。進が固まったまま、吉子の方を凝視している。
「返事は?」
「――はい」
進が少しだけ間を空けて返事をする。返事の仕方が気に入らなかったが、明日から練習させれば良いと思い、大目に見ることにした。
ふと部屋の時計を見る。時刻は五時前だ。もう少しで、吉子の旦那の
「もう少しで、パパとおばあちゃんが帰ってくるわ。特におばあちゃんは、あんたのことを心配するけん、絶対に落ち込んだ表情を見せたらいかんよ。いいわね?」
吉子は顔を引きつらせて、静かに進に忠告した。進が怯えながら頷く。吉子は椅子から立ち上がり、リビングルームを出た。
晩御飯の用意をしなければならない。吉子は冷蔵庫を開け、中から和牛ステーキを人数分取り出した。
*
「ただいま」
六時十分を過ぎた頃、成実が仕事から帰ってきた。料理を中断し、吉子は成実を出迎える。
「おかえりなさい。お義母さん」
成実が玄関で靴を脱ぎながら、吉子に笑顔を見せた。
「とてもいい匂いがするわね。今夜はステーキかしら?」
「はい。今夜は国産のステーキ肉を焼いています。ところで和夫さんは、まだ戻らないのでしょうか?」
吉子が成実の後ろをチラッと見ながら問いかける。成実が申し訳なさそうに、吉子の方を見た。
「それが、今夜は友達と飲みに行くみたいなんよ。やけん今夜のステーキは、私と吉子さんと、進ちゃんの分だけで大丈夫よ」
「分かりました。和夫さんの分は、冷蔵庫に戻しておきます」
「ごめんね。さあ、とりあえず中に入りましょ」
吉子が成実とともに部屋に入っていくと、進が目の前に立っていた。吉子が驚き、思わず目を見開く。
「ちょっとあんた、そんなところに立っていたら、おばあちゃんが驚くでしょ?」
成実がすぐ隣にいるため、吉子はなるべく優しい声で進を叱った。進が黙って、吉子と成実を交互に見る。
「いいのよ吉子さん。すすむちゃん、わざわざおでむかえしてくれて、おばあちゃんとてもうれしいわ」
成実の声を聞いて、進の表情が柔らかくなった。
「おかえりなさい。おばあちゃん」
「ただいま。こんやもいっしょに、おいしいごはんたべようね」
成実が進に微笑みかける。すると進は、嬉しそうに大きく頷いた。微笑ましい空気が何だか気に入らないと思い、吉子がその間に割って入る。
「さあ。どうぞ入って休んでください。もう少しで晩御飯ができます」
「ありがとう。ちょっと部屋で着替えてくるわね」
「はい」
吉子が返事をすると、成実は二階へ上がっていった。成実が上がっていったのを確認してから、吉子は進の方を見る。
「さっきも言ったけど、おばあちゃんは仕事で疲れとるの。やけん落ち込んどる姿を、絶対見せるんじゃないよ」
「わかった」
吉子は進を睨みつけて、キッチンへと向かった。和夫の分のステーキにラップをかけ、冷蔵庫の中に入れる。そしてガスコンロに火をつけ、料理を再開した。
成実に進のことがバレたら厄介だ。今日の幼稚園での出来事は、秘密にしておく必要がある。
そして走る練習も、成実が仕事でいない時にしなければならない。間違いなく吉子が怒られてしまうからだ。
とりあえず、御飯時の進の様子には、気を張っておこう。吉子はそう思いながら、火加減を調節した。
*
「まあ。とても美味しそう!」
二十分が経過した頃、料理が完成した。成実が嬉しそうに椅子に座る。成実の前に、進も腰を下ろした。
「これで全て出来上がりました。お義母さん、進ちゃん、冷めないうちに食べましょう」
「そうね。ありがとう。早速いただくわ」
成実が手を合わせると、進も静かに手を合わせた。その様子を見た成実が、心配そうに進の方を見る。
「すすむちゃん。どうしたん? なんだかげんきがないわよ?」
成実の問いかけに、進が挙動不審になる。吉子は成実にバレないように、進を睨みつけた。睨みつけた後、吉子は成実の方を見た。
「実は今日、学校でかけっこがあったんです。それで進ちゃん、疲れているんだと思います」
吉子の言葉に、成実が納得したように頷く。そしてそのまま、進に笑顔を向けた。
「すすむちゃん。きょうはよくがんばったわね。ママがたべやすいように、ステーキをちいさくきざんでくれたけん、もりもりたべてげんきになろうね」
成実が優しく語り掛ける横で、吉子は鋭い視線を向けた。進が察したかのように、成実に作り笑いを見せる。
「うん。おばあちゃんありがとう」
「いえいえ。進ちゃんは本当に良い子だわ」
成実が嬉しそうに、ナイフでステーキを切り始める。進の違和感に気が付いていないようだ。その様子を見て、吉子は肩の力が抜けた。
「あ、そうそう。吉子さん、食事が終わって片付けも済んだら、私の部屋に来てちょうだい。ちょっとお話ししたいことがあるんよ」
成実の言葉に、吉子は僅かに緊張を覚えた。もしかしたら、進の違和感を感じ取ったのかと思った。
「――分かりました。ところで、どういったお話でしょうか?」
吉子が恐る恐る成実に聞く。成実が水を飲み、コップをテーブルの上に置いた。
「ヨウコウのことよ」
成実が進に聞こえないように配慮したのか、小さな声で吉子に言った。また話の聞き役になれば良さそうだ。吉子は安堵したのと同時に、今回は何を話されるのか気になった。
「分かりました。片付けを終えたら、部屋に行きますね」
「ありがとう。お願いね」
成実が不安そうな表情で、ステーキを口の中へ運ぶ。吉子はその様子を横目に、自身もステーキを口に入れた。
*
片付けを終えた後、進を二階の子供部屋へ連れていった。扉を閉める前に、もう一度進の方を見る。
「明日から走る練習をするわよ。後で準備するけん、今日は早めにお風呂に入りなさい」
進が小さく頷いた。吉子はその様子を見てから、扉をやや強めに閉める。そしてそのまま、成実の部屋へと歩いていった。
成実の部屋の前に立った。当然中の様子は見えないため、入る前に扉をノックする。
「お義母さん。失礼します」
「入っておいで」
中から声が聞こえたのを確認してから、扉を開けた。ベッドの前に、テーブルと二つの椅子が置かれている。成実はその椅子に腰を下ろしていた。
「座っていいわよ」
「はい」
吉子が成実の前に、腰を下ろした。吉子が腰を下ろすと、成実はため息をついた。
「お義母さん」
成実が下を向いている。吉子が声を掛けると、成実はゆっくりと顔を上げた。
「吉子さん。そろそろヨウコウに、メスを入れていかないといけないわ」
成実の言葉に、吉子は目を見開いた。
「お義母さん」
「分かっとるんよ。お父さんの遺言では、今のままのヨウコウを維持してほしいってこと。西日本の至る所にある店舗を、残してほしいってことね。でもね、それももう限界が近づいとるんよ」
成実が深刻そうな表情を浮かべながら、亡き夫である
成実がゆっくりと口を開く。そしてまた、静かに喋り始めた。
「もう、お人形の大きさを競う時代も終わった。雛人形も五月人形も、段々と商品のサイズがコンパクトになってきている。昔はあれだけ、七段のお人形をたくさん展示していたのに……」
「確かに、そうですね」
吉子の返答に、成実が再びため息をつく。そして下を向いてから、再び顔を上げた。
「それから今の人は、あまりお人形に馴染みがないでしょう? 本当はいけないのに、自分のお人形を、そのまま娘や息子に譲っている人もいる。本当に時代が変わってしまったわ。そのせいか、売上の出ていない店舗は相変わらずのまま……。大量に抱えた在庫を、他店舗に移しても焼け石に水よ」
「――お義母さん」
成実が不安そうな表情で、吉子をジッと見てくる。どうにか考えを改めさせなけらばならない。必死で考えを巡らせながら、吉子は口を開いた。
「お義母さん、確かに時代は変わってきています。そしてお客さんにもよりますが、より小さなお人形を、求めている人が多いのも事実です。ですがまだ、ヨウコウにメスを入れるのは、時期尚早だと思います。もう少し解決策を考えてから、実行に移しても、遅くはないと私は考えます」
吉子は成実の意見に共感しつつ、落ち着いて自分の意見を述べた。だが内心では、かなり焦っていた。ヨウコウは進に継がせる時まで、強いままであってほしいからだ。
成実が横を向いたまま、あれこれ考えを巡らせている。そして納得したように、小さく頷いた。
「確かにそうね。焦って後悔しても、取り返しがつかないものね」
「そうですよ。ピンチの時こそ、慎重になるべきです」
吉子がはっきり言うと、成実は笑顔になった。
「いつも話を聞いてくれてありがとう。何だか心が軽くなったわ。本当に頼りになるけん、吉子さんにも経営に参加してほしいぐらいだわ」
「いえ。そんな」
成実の問いかけに、吉子は謙遜した素振りを見せた。成実が安心したように、椅子にもたれかかる。
「お義母さん、明日もお仕事でしょう? ハーブティーを入れてきましょうか? せめて夜だけでも、リラックスしてほしいです」
「ありがとう。この前飲んだハーブティーと、同じものがほしいわ」
「分かりました。では入れてきますね」
吉子が椅子から立ち上がり、部屋を出る。部屋の扉を閉めると、廊下が真っ暗になった。
真っ暗な廊下の中で、吉子は後ろを振り返った。そしてそのまま、ゆっくりと目を細める。
「弱体化したヨウコウなんていらないのよ。私が欲しいのは、今のままのヨウコウなんよ」
吉子は中の成実に聞こえないように小声で呟いた。そしてそのまま、階段を一段ずつ降りていく。
吉子は和夫の代から、陰でヨウコウを操るつもりでいた。そして和夫の次は、他でもない進の番だ。吉子は生きている限り、二人を操り人形にするつもりでいた。
そのため成実には、一刻も早く経営から退いてほしかった。そして好き放題するために、あわよくばこの世からも退場してほしい。吉子の野望は、人知れず、そしてどす黒く渦巻いていた。
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