第5話 毒母
「さあ、行くわよ」
翌日。吉子は予定通り進に準備をさせ、走る練習をするために外出しようとしていた。進の目の下は、クマで真っ黒になっている。
だが吉子は、その様子を気にすることなく進の手を引いた。そして進の手を引いたまま、吉子は練習に最適な場所を考えた。
安全に走る練習ができる場所は、やはり公園だ。公園であれば、車も通っていない。それに周囲の人達に、運動熱心な母親だという印象も与えることができる。そのため吉子は、最適な場所だと思った。
階段を降りて、玄関の方へ向かう。当然成実も和夫も仕事でいない。家にいるのは、吉子と進だけだ。
玄関で進の靴を取るため、シューズボックスの扉を開けた。するとその時、吉子のスマートフォンに電話がかかってきた。派手なメロディーが、玄関に響き渡る。
「一体誰よ。こんな時に」
吉子はバッグを弄り、スマートフォンを取り出した。だがスマートフォンに表示された電話番号を見て、一気に緊張が走った。吉子の母親である
「まさか、お母さん……」
進が隣で、不安そうに吉子を見てくる。吉子はその様子をチラッと見た後、画面をスライドさせて電話に出た。
「もしもし。越智です」
「こんにちは。ひまわりの森の
「お世話になっております。どうかなさいましたか?」
敏江の担当である花岡の声が、何だか暗い。吉子は敏江に何かあったのかと、震える手でスマートフォンを耳に押し当てた。
「実は最近、敏江さんが、夜中に吉子さんの名前を呼ぶことが多いんです。認知症がかなり進行していると思われます。私達で何とかしようとしているのですが、全く落ち着いてくれなくて……。吉子さんがお姿を見せてあげれば、敏江さんも落ち着くのではないかと思い、お電話させていただきました」
花岡の暗く、低い声を聞いて、吉子は一気に憂鬱な気分になった。面会など、ここ数ヶ月行っていない。それに精神的に疲れるため、どうしても敏江には会いたくなかった。
「もしもし?」
花岡が心配そうに話しかけてくる。本当は行きたくない。敏江に会いたくない。だが行かないと、また電話がかかって来そうな気がしてならなかった。
「分かりました。これからそちらに伺います」
「ありがとうございます。ではお待ちしております」
「はい。よろしくお願いします。失礼します」
吉子はスマートフォンを耳から離し、すぐに電話を切った。進が変わらず、不安そうな表情で吉子を見てくる。
「ママ」
「おばあちゃんの所に行かんといかんけん、走る練習は明日にするわよ。あんたが幼稚園から帰ってきてからにしましょ」
「――わかった」
進が少し間を空けて、小さな声で頷く。吉子は進を家で留守番させて、一人でひまわりの森へ向かおうと思った。
「じゃああんたは、家で留守番していなさい。算数のドリルでも解いていればいいわ。誰か来ても絶対に外に出ないのよ」
「わかった」
進の返事を聞いてから、吉子は靴を履いて外に出た。今日は快晴だ。折角の練習日和が、台無しになってしまった。
残念な気持ちを抱えたまま、扉を閉める。そしてそのまま、鍵を回して施錠した。そして吉子は、急ぎ足でカーポートの方へと向かった。
*
「こんにちは」
「吉子さん。お待ちしておりました」
正面玄関から中に入ると、花岡がすぐに出てきた。吉子は靴箱の前で、スリッパに履き替える。
「敏江さんはお部屋にいます。最近夜中になると、ずっと吉子さんの名前を呼んでいるんです。どうかお顔を見せてあげてください」
「――分かりました」
吉子は渋々返事をした。そして一気に、緊張感が増してくる。敏江の顔を見ると、吉子はいつもこの症状に襲われていた。
――出来の悪い馬鹿娘め!
――あんたなんか産まなきゃよかった
――こんなので満足しとるの? もっと上を目指しなさいって、いつも言っとるでしょ!?
過去に敏江から言われた言葉が、次々にフラッシュバックしてくる。吉子は花岡に悟られないように、平常心を保った。
すぐに敏江のいる部屋の前まで辿り着いた。少しでも気を抜いたら、発作に襲われる。吉子は深呼吸をして、不安を鎮めた。
花岡が扉をノックする。そしてそのまま、扉を開けた。
「失礼します。敏江さん、娘さんがいらっしゃいましたよ」
敏江はベッドの上に座っていた。花岡が大きな声で、敏江に話しかける。すると敏江は、花岡の方を指差した。
「あんたは、
「違いますよ。私は、敏江さんのお世話係をしている花岡です」
花岡が、慣れたように敏江に話しかける。敏江が目を丸くして、花岡から目を反らした。
敏江の言う雄二は、吉子の兄のことである。唯一の兄妹であるが、雄二は東京に行ったきり帰ってこない。吉子自身も、雄二とは年単位で、会っていない状態が続いていた。
「――お母さん」
吉子が消え入る声で、敏江を呼んだ。敏江がゆっくりと吉子の方を見る。すると敏江は、動かしにくそうな口を無理やり動かし始めた。
「うちの娘が来たか。この出来の悪い馬鹿娘め」
「敏江さん、何てことを言うんですか? 敏江さんのことを誰よりも気にかけているのは、娘の吉子さんですよ」
花岡が冷静に敏江に話しかける。敏江は真顔でこちらを見てくるだけだ。するとトラウマのせいか、吉子の体は小刻みに震え始めた。
何をしても否定されるし、批判される。敏江の言う通り、吉子は常に結果を残してきた。それにもかかわらず、敏江はいつもこの態度だ。
学生時代、成績は常に一位をキープしていた。そして大学も、名門大学を入学し、優秀な成績を残して卒業した。そして更に、誰もが羨む越智家に嫁入りした。
だが敏江は、そんな吉子を一切認めなかった。むしろ何故もっとできないのか、何故もっと上にいけないのかと責め立てた。常にレールの上を歩いていたにもかかわらずだ。
「お母さん……」
吉子は消え入るような声で、再び敏江に声をかけた。すると敏江の顔が、段々と歪んでいった。
「ん? 何か臭いますね。もしかして敏江さん――」
「ああああ……」
花岡が声を掛けたと同時に、敏江が暴れ始めた。直後、敏江が吉子の方に鋭い視線を向ける。
「何ボーっと立ち尽くしてるんだ! この馬鹿娘! 早く着替えを持ってこんかい!」
「敏江さん! 危ない!」
敏江が、ベッドのそばにあった目覚まし時計を手に持つ。そしてそのまま、吉子の方に投げようとし始めた。花岡が咄嗟に止めようとしたが、間に合わなかった。
――ガシャン
だが目覚まし時計は、吉子に当たることはなかった。やや大きめの音が響き渡った後、飛び出した乾電池が床を転がっていく。一つの乾電池が、吉子の足に当たった。
「大丈夫ですか? 吉子さん」
「はい」
老いを感じた。敏江は確実に弱ってきている。それにもかかわらず、精神的な恐怖だけは、心の中から消える気配はなかった。
「吉子さん。部屋を出ましょう。ここに居ては危険です」
「分かりました」
花岡が吉子を部屋の外に誘導する。そしてそのまま、扉を閉めた。敏江は何やら叫んでいる様子だったが、扉を閉めると聞こえてこなくなった。
「申し訳ありませんでした。吉子さんのお姿を見れば、良くなると思ったのですが……」
「大丈夫です。ただ、かなり認知症が進んでいるみたいですね」
吉子が小さめの声で言うと、花岡は深刻そうな表情を浮かべた。
「このまま徘徊などの症状が出始めたら、身体拘束を行う必要性も出てくるかと思います。しばらく全職員で気を配るようにはしますが、そのような可能性もご承知おきください」
「分かりました。ありがとうございます」
吉子が頭を下げると、花岡もお辞儀をした。
「こちらこそありがとうございました。ではまた何かあれば、すぐに連絡します」
「分かりました」
このようなやり取りが、この先もずっと続くのか。吉子は憂鬱さの余り、ため息が出そうになった。
「敏江さん、落ち着いてください」
ふと敏江の部屋に目を向けると、扉が開いていた。中から女性職員の声が聞こえてくる。敏江の服を着替えさせているようだ。
ジッと扉の方を見ていると、吉子は遂に我慢していたため息が出た。だがそのまま、花岡の方に視線を向けた。
「では失礼します。ありがとうございました」
「こちらこそ、本日はありがとうございました」
吉子は花岡に頭を下げて、そのまま正面玄関の方へ歩いていった。正面玄関がやたらと暗い。外を見ると、灰色の雲がいつの間にか空を覆っていた。
再びため息をつき、靴を履き替える。ここには長時間居たくない。スリッパを戻すと、吉子は後ろを振り返ることなく、急いでひまわりの森を後にした。
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