第6話 砂遊び

「ただいま」


「お帰りなさい」


 翌日の夕方、進が幼稚園から帰ってきた。進が玄関で靴を脱いで家の中へ入る。


 少しだけ玄関の扉を開けて外を見る。すると藤松が、手を前に組んで吉子にお辞儀をしてきた。そしてそのまま、逃げるようにバスへ乗り込んでいく。


「何なん。あれ」


 吉子は鼻で笑った後、玄関の扉を閉めた。そして二つある鍵のうち、上段にある鍵を施錠する。


「進ちゃん。走る練習をしに行くわよ」


 吉子はそのままリビングルームへ入っていき、二階に上がっていった進に呼びかけた。すると進は、荷物を置き、手ぶらの状態で階段を降りてきた。


「今日は一時間ほど公園で練習するわよ。いいわね?」


「わかった」


 進が頷いたのを確認してから、吉子は玄関の方へ出た。吉子の後ろを、進が静かに付いてくる。


 公園はここから歩いて行ける距離だ。ちょうど散歩も兼ねることができる。運動不足だった吉子にとっても、ちょうど良い場所だった。


 先程閉めた鍵を解錠する。そして吉子と進は、玄関を出た。今日は昨日と打って変わって、天気がとても良い。それに気温もちょうど良い感じだった。


 上段の鍵穴に鍵を差し込む。吉子はそのまま施錠した後、進と公園へ向かって歩いていった。


        *


 十分ほど歩いただろうか。吉子と進は、公園に到着した。今日は人もあまりいない。練習には丁度良い環境だと思った。


「さあ、ママはここのベンチで見よるけん、走ってきなさい」


「うん」


 進が返事をして、広めの通路へと移動する。吉子はその様子を見ながら、傍にあったベンチに腰を下ろした。


 進が自分でスタート地点を決め、全速力で走り始めた。だがこの前、良太の走りを見ているせいか、何故か進の方が遅いように感じる。


「もっと腕を振って、足を上げて!」


 ベンチに座ったまま、吉子が大声で進に叫ぶ。すると進は、吉子の言われた通りに、腕を振って足も上げ始めた。


 だがすぐに、無理な走り方をしたせいか、進はその場で転んでしまった。


「もう。何しよるの? どんくさいわね」


 吉子はベンチから立ち上がり、進の元へ駆け寄った。進が痛そうな顔でその場に座り込んでいる。だが転んだ場所が芝生だったおかげか、擦り傷は無さそうだ。


「大丈夫?」


「うん。だいじょうぶ」


 進は痛そうな顔のまま立ち上がった。若干ふらついていたため、吉子が進を支える。


「まあ。頑張ったわね。ちょっとだけ、お砂遊びしてきてもいいわよ」


「いいの?」


 吉子が言うと、進は嬉しそうな顔をした。それに釣られて、吉子も少しだけ笑みがこぼれる。


「少しだけよ。ママはトイレに行ってくるけんね」


「うん!」


 進が返事をして、砂場へと走っていく。吉子はその様子を見届けてから、トイレの方へ歩いていった。


        *


 トイレを済ませた後、吉子は再び砂場の方へ歩いていった。まだ公園に来てから数十分しか経っていない。だがもう、晩御飯の準備に取り掛かりたくなったため、吉子は進を連れて家に帰ろうと思った。


 砂場の近くまで来た。すると進が、誰かと話している声が聞こえてきた。だが木で隠れているため、こちらからは様子が見えない。吉子は誰と話しているのだろうと思い、早足で声のする方へ向かった。


 砂場の様子が見えたその時、吉子はその場で立ち止まった。目の前のベンチには、何と瞳が腰を下ろしていたのだ。


 驚いた状態のまま、続けて砂場の方に目を向けた。すると進が、良太と砂遊びをしている光景が視界に飛び込んできた。


「りょうた、すすむくん。おいしいあるけど、たべる?」


 瞳が笑顔で、進と良太にみかんを差し出している。一体何故、あの女がここにいるのだろうか。吉子は瞳を、鋭い視線で睨み付けた。


「たべるたべる!」


 良太が一番に立ち上がり、瞳の元へ向かう。まさか進も、続いて瞳の元へ向かうのか。絶対に仲良くするなと、この前言い聞かせたばかりだ。吉子は進のことを信じて、その場で様子をうかがった。


「おばさん。ぼくもたべたい!」


 だが進は、吉子を裏切り、笑顔で瞳の元へ駆け寄っていった。固く約束をしたにもかかわらずだ。吉子はショックを感じながら、拳を強く握りしめた。


「進!」


 そして吉子は、大声で進の名前を呼んだ。進に続き、良太、そして瞳がこちらに視線を向ける。


 吉子を見た瞬間、進の顔から笑顔が消えた。そして進の顔全体が、真っ青になり始める。


 吉子はそのまま、ゆっくりと瞳の元へ歩いていった。瞳が驚いた様子で、吉子の顔をじっと見る。


「ちょっとあんた、うちの進ちゃんに何してくれてるのよ!」


 周りの人たちがお喋りを止め、視線を一気に吉子の方へ移す。いつの間にか賑わっていた公園に、沈黙が流れた。


 瞳がみかんを容器の中にしまう。そして再び、落ち着いた様子で吉子の方を見た。


「良太を砂場に連れてきたら、たまたま進ちゃんが遊んでいたんです。それで進ちゃんが、うちの良太と遊んでくれていただけですよ……」


 瞳が困ったような表情を浮かべる。吉子は瞳を無視し、そのまま進の方に視線を移した。


「進。あんたこの子とは仲良くしないって、この前ママと約束したよね?」


「……ごめんなさい」


「ごめんなさいじゃないわよ!」


「吉子さん」


 吉子が大声で進に詰め寄る。すると瞳が、慌てた様子で吉子を落ち着かせようとした。


「吉子さん。ごめんなさい。私が悪かったわ。だから進君を、これ以上責めないであげて……」


 瞳がベンチから立ち上がり、吉子に頭を下げた。この事実をなかったことにされているかのようだ。吉子はますます、瞳に嫌悪感を覚えた。


「悪かった? 私の息子に、汚い食べ物を食べさせようとしたあんたがよく言うわよ!」


「キャッ」


 吉子は大声を張り上げた後、瞳が手に持っていたみかんを思い切り振り払った。容器からみかんが飛び出し、地面へ転がっていく。吉子の手が当たった瞳も、バランスを崩してその場に倒れ込んだ。


「ママ」


 良太が心配そうに、倒れ込んだ瞳を支える。進は凍り付いたまま、その様子をじっと見ていた。


「大丈夫ですか? どうかされましたか?」


 するとその時、通行人であろう年配の男が、吉子達に声をかけてきた。騒動を見ていたのだろう。かなり深刻そうな表情を浮かべている。


 瞳が通行人の男に支えられながら立ち上がる。すると良太が、散らかったみかんを容器に戻し、瞳に差し出した。


「関係のない方は出てこないでください。これは私達の問題なので!」


 吉子が目を引きつらせ、低い声で男に言い放った。男が若干怯えた様子で、吉子の顔をじっと見る。


 吉子は男から目を離し、瞳と良太を交互に見た。これ以上騒いだら、事が大きくなりそうだ。そのため今日は、このまま引き下がろうと思った。


「今日はこのくらいで許してあげるわ。でも今後、また同じようなことがあったら、その時は絶対に許さないわよ。二度と関わらないでちょうだい!」


 吉子は最後、大声を張り上げた後、青ざめた進の手を強引に引っ張った。進が転びそうになりながら、吉子とともに歩き始める。


 成実と和夫が帰ってくる前に、進をキツく叱る必要がある。そして幼稚園にも、席替えをしてもらうよう連絡を入れよう。吉子は後ろを振り返ることなく、ひたすら家へ向かって歩き続けた。

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