第7話 大人の事情

「さあ、かえってきたわよ」


「ただいま」


 瞳は良太とともに、公園から真っ直ぐ家に帰ってきた。瞳が玄関の扉を開ける。良太が小さな声で、誰もいない家に挨拶をした。


 良太の表情がとても暗い。瞳は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。そのため瞳は、良太を玄関前で抱きしめた。


「りょうた、きょうはごめんね。こわかったわね」


 瞳は良太を抱きしめた瞬間、涙が溢れそうになった。だがここで涙を見せると、余計に良太の負担になってしまう。そのため瞳は、必死で涙をこらえた。


「ママ」


「どうしたん?」


 良太が瞳に小さく、暗い声で話しかけてきた。瞳は抱きしめるのをやめて、良太の目を真っ直ぐに見る。


「ぼくはどうして、すすむくんとなかよくしたらいかんの?」


 良太が純粋な目で、瞳に質問してきた。一瞬返答に困った瞳は、良太から視線を反らした。


「ぼくがなにかわるいことをしたけん、すすむくんのママはおこっとったの?」


 良太が今にも泣きそうな顔をしている。良太の泣きそうな顔を見て、瞳は必死で首を横に振った。


「ちがう。そうじゃないの。りょうたはなにもわるくないんよ。ただね、すすむくんのママにも、いろいろながあるのよ」


ってなに?」


 良太が首を傾げながら、瞳に聞いてくる。瞳は良太の目を見ながら、ゆっくりと話し始めた。


「すすむくんのママが、あんなにおこっていたよ。りょうたもおおきくなったら、きっといろいろなことがわかってくるわ」


 良太が不思議そうに瞳を見てくる。そんな良太の両肩に、瞳は手を置いた。


「でもねりょうた、いまからママのいうことをわすれないで」


 瞳は言い終えた後、真剣な表情を浮かべた。良太は目を丸くしたまま、素直に頷いてくれている。


「あのねりょうた。りょうたはね、じぶんからなかよくしたいっておもったひととは、だれとでもなかよくしていいんよ」


 良太が頷きながら、一生懸命話を聞いてくれている。瞳は涙が出そうになりながらも、話を続けた。


「でもね、きょうみたいに、じぶんがなかよくしたいっておもっていても、おともだちになれないこともあるの。おともだちはね、があって、おたがいのきもちがつうじたときに、はじめてできるまほうみたいなものなの」


「まほう?」


「そう。まほうよ」


 良太が再び、不思議そうな顔をして頷く。瞳は目を合わせたまま、良太の肩から手を離した。


「じゃあすすむくんは、ぼくとはなかよくしたくないってこと?」


 良太が瞳に質問してきた。返答がとても難しい。だが冷静さを保ったまま、瞳は落ち着いて話し始めた。


「ちがうの。こんかいだけはね、そうじゃないんよ。きっとすすむくんも、りょうたとなかよくしたいっておもっているはずよ。でもね、すすむくんのママが、それをゆるさないがあるの。そのはね、さっきもいったように、りょうたがおおきくなったらわかってくることよ」


「そうなんだ。すすむくんとなかよくできないの、ざんねんだよ」


 良太が残念そうな表情を浮かべる。良太は、進と仲良くしたいようだ。そして進も、同じように良太と仲良くしたいと思っているはずだ。


 良太も進も本当に可哀想だ。そう思った瞳は、良太を抱きしめた。


「ごめんねりょうた。きっとほかに、あたらしいおともだちができるとおもうわ。もしあたらしいおともだちができたら、そのこのことはたいせつにしてあげてね」


「わかった。ママ、たいせつにするよ」


 何て素直でいい子なのだろう。瞳は遂に、涙が溢れてきた。大人の事情で、子ども同士の友達関係にまで影響が出てしまうとは。瞳はとても悔しかった。


「ママ、ないてるの?」


 良太が心配そうな声で瞳に聞いてきた。肩が震えていたので、気付かれてしまったようだ。瞳は慌てて涙を拭い、抱きしめるのをやめた。


「ママ、よしよし」


 良太が瞳の様子を見て、慰めてくれているようだ。良太は、泣いている瞳の頭を優しく撫でてくれた。その様子を見て、瞳は更に涙が溢れてきた。


「ごめんねりょうた。ありがとう」


 良太は本当に優しい子だ。そのことを心の底から感じた瞳は、下を向いたままむせび泣いた。


        *


 外が少しずつ暗くなり始めた。良太は疲れたのか、奥の部屋で仮眠を取っている。瞳はその様子を横目に、台所で晩御飯の用意を始めた。


 するとその時、瞳のスマートフォンに電話がかかってきた。発信者の名前を見る。名前は、藤松真理と書かれていた。


 こんな時間帯にどうしたのだろうか。瞳は不安を感じながらも、画面をスワイプさせた。


「はい。天野です」


「こんばんは。松山まつやま幼稚園の藤松です。突然ご連絡して申し訳ありません」


 藤松の声が、気のせいかいつもより暗く聞こえる。瞳はスマートフォンを耳に押し当てた。


「こんばんは。藤松先生。どうかなさいましたか?」


 瞳は固唾を飲んだ。もしかすると、吉子のことではないかと思った。


「実は、その、非常に申し上げにくいのですが……。先程越智さんからお電話がありまして……。進君と良太君のお席について、越智さんから非常に強いご要望をいただいたのです」


 藤松の言葉を聞いて、瞳はやはり吉子のことだと改めて認識した。だが分かっていたにもかかわらず、瞳は胸が締め付けられた。


「もしかして、うちの良太と、進君の席を、離してほしいという要望ですか?」


「――そうなんです。越智さんがどうしてもとおっしゃっていまして……。大変申し訳ありませんが、天野さんが差し支えなければ、席替えを行ってもよろしいでしょうか?」


 藤松の声を聞いて、瞳は目を瞑った。ここは自分が折れなければ、後々大変なことになりそうだ。それに良太に、何かがあってからでは遅い。


「もしもし?」


 藤松の不安そうな声が、電話口から聞こえてきた。瞳はスマートフォンを耳に当て直した。


「分かりました。越智さんのご要望を受け入れます。お願いします」


「本当に申し訳ありません。では明日から、席替えをさせていただきます」


 藤松の謝罪の声が、僅かに明るくなる。きっと安堵したのだろう。だが瞳は、ここで一つだけ、藤松にお願いをしようと思った。


「はい。ただその代わり、一つだけお願いをしてもよろしいでしょうか?」


「もちろんでございます。何でしょうか?」


 瞳は喋り始める前に、一息ついた。


「うちの良太に、これまで以上に気を配っていただきたいのです。私は正直、越智さんとのトラブルに、良太が巻き込まれないか不安なんです。ですので、どうかよろしくお願いします」


 瞳は最後、やや強調気味で言葉を放った。そんな瞳の言葉を、藤松は最後まで真摯に聞いてくれている様子だ。


「分かりました。席替えを行った後も、これまで以上に良太君には気を配るようにします。そして何かあれば、すぐに天野さんに連絡するようにします」


「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」


 瞳は電話越しであるにもかかわらず、何度も頭を下げた。


「とんでもございません。突然このような形になってしまい、申し訳ありませんでした。今後ともどうぞよろしくお願いします。それでは失礼します」


「はい。こちらこそ失礼します」


 電話が切れた。瞳はスマートフォンの画面を切り、机の上に置いた。やはり藤松は、吉子のことで電話を掛けてきた。瞳はため息をつきながらも、再びキッチンに立った。


 するとその時、再び着信音が鳴り響いた。瞳は驚きながらも、誰だろうかと思い、発信者を見た。


 瞳は画面を見て、思わず眉をひそめた。画面には、電話帳には登録していない見知らぬ番号が表示されていた。

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