第8話 悪縁
「はあ……」
大きなため息をつきながら、吉子はリビングに入っていった。硬直した進が、ソファに座ったまま吉子をじっと見てくる。
「進、こっちに来なさい」
吉子は進を、ダイニングルームの机へ移動させた。進が黙って、吉子の後ろを付いてきている。
「座りなさい」
吉子は低く、ドスの効いた声で進に言った。進が怯えたまま、吉子の前に座る。
「明日から席替えをしてもらうように、藤松先生にお願いしたわ。前も口を酸っぱくして言ったけど、もうあの良太という子とは絶対に仲良くしないこと。分かった?」
進が怯えたまま下を向いている。吉子はムッとして、そのまま目を細めた。
「返事は?」
「――はい」
進が小さな声で返事をする。吉子は乗り出していた体を、元に戻した。
「日本という国はね、みんな平等そうに見えて、実はとても不平等なの。あんたはまだ小さいけん分からんかもしれんけど、それが現実なんよ」
吉子が横を向いたまま、小さく、低い声で進に言う。進は下を向いたまま、コクリと頷いた。
「エリート街道を歩んで、より高い社会的地位に就かんと、この国で生きていくのは悲惨よ。あの親子を見ていたら分かるでしょ? 着ている服も、食べているものも、
吉子は確かめるように、ジッと進の顔を見る。進が吉子の顔をチラッと見た後、再び下を向いた。
「やけんあんな子とは仲良くしたらダメ。影響されるけんよ。嫌でも感化されてしまうけんよ。将来おばあちゃんやパパみたいに、立派な大人になりたいなら、付き合う友達を選びなさい。分かった?」
「はい」
進が下を向いたまま、小さな声で返事をした。吉子は姿勢を正し、階段を指差した。
「分かったなら、部屋に戻って勉強しなさい。ママは下でご飯を作るわ」
進が立ち上がり、椅子を中に入れる。そして静かに、階段の方へ歩いていった。
「そうそう。もう一つ大事なことを言っとくわ」
進が階段を上る足を止めて、ゆっくりと後ろを振り返る。吉子は進の方へ体を向け、そのまま目線を合わせた。
「今後、新しいお友達ができたら、すぐママに報告しなさい。ママがどんな子か審査するけん。ママが選んだ子とだけ仲良くしなさい。ママの言う通りにしていれば、何もかもうまくいくけん。いいわね?」
「――わかった」
「部屋に戻りなさい」
吉子の言葉で、進が再び階段を上っていく。吉子はため息をつきながら、体を元に戻した。
良太から距離を置くことに成功した。あの親子は間違いなく疫病神だ。だが進にもしっかりと言い聞かせたため、もう関わることはないだろう。
外が段々と薄暗くなってきている。晩御飯の支度をしなければならない。一安心した吉子は、椅子から立ち上がりキッチンの方へ向かった。
*
「ただいま」
「お帰りなさい」
和夫が仕事から帰ってきた。吉子はコンロの火を止めて、和夫の元へ向かう。
「お義母さんは?」
一緒にいるはずの成実がいない。吉子は玄関の方を見ながら和夫に尋ねた。
「残業してる。もう少ししたら帰ってくるよ」
「そう。お義母さん、大変ね……」
吉子は再びキッチンへと戻った。フライパンを手に取り、焼けたハンバーグを皿に盛り付けながら和夫の方を見る。
「今日はどうだった?」
「今日、新しい人が入ってきたよ」
和夫が微笑みながら、やや明るい声で吉子に言った。
「へえ。どんな人?」
「女の人だ。君と同じくらいの歳で、天野さんっていう人だ」
和夫から発せられた名前を聞き、吉子はハンバーグを盛り付けていた手を止めた。下の名前はまだ聞いていない。だがあの女なのではないかと、吉子はすぐに悟った。
「天野って、天野瞳?」
「そうや。君の知り合いか?」
盛り付けを終え、吉子はフライパンをコンロの上に戻した。
「ええ。その人、進と同じ幼稚園の保護者よ」
「おおそうか。どんな人なん? まだ直接は会ってないんよ」
和夫がキッチンに入ってきて、ハンバーグの入った皿を運びながら吉子に尋ねる。吉子はため息をついた後、ゆっくりと口を開いた。
「まあ、とんでもない人よ。最近入ってきたのに、かなり上から目線で……。何かあったらすぐ藤松先生にクレームを入れるの。モンスターペアレントもいいところよ」
「何? そんなにヤバい人なんか?」
和夫がハンバーグをテーブルの上に置きながら、驚いたような表情を浮かべる。吉子は困り顔を作り、続けて和夫に言った。
「そうなんよ。本当に保護者間でも嫌われ者よ。貴方、そんな人に甘く指導しちゃだめよ。つけあがるだけやけん」
「んー。まあ、まだ実際に会ってないけんな。会ってそんな態度やったら、そうするよ」
吉子は和夫に聞こえないように、小さく舌打ちをした。初めから私の言うことを聞いていればいいのに。吉子は和夫の思い通りにしづらいところが、いつも面白くなかった。
「まあとにかく、その天野って人がヤバいことは頭に入れといてよ。ヨウコウは今大変な時やのに、余計に困るでしょ?」
「分かったよ」
和夫は食器を並べながら、若干煩わしそうに返事をする。吉子はバレないように和夫を睨みつけながら、今度は一皿ずつ出来立てのライスを盛りつけていった。
それにしても悪縁だ。あの女が、今度はヨウコウに入ってくる。一体どこまで図々しく、しぶといのだろうか。
進と良太のことが解決したばかりであるため、余計に頭が痛い。吉子は大きなため息をつきながら、ライスを引き続き皿に盛りつけていった。
満たされない億万長者 しんたろー @shintarokirokugakari
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