第2話 かけっこ

 着替えを済ませた園児達が、運動場に出てきた。二列ずつペアになって、こちらに歩いてきている。吉子は胸の高まりを覚えながら、その様子に見入った。


「吉子さん。いよいよが始まりますね!」


「そうね。本当に楽しみだわ」


 晴美の言う通り、本当に楽しみだ。だが吉子は、それを表に出さず、平静を装ったまま返事をした。


 するとその時、視界に瞳が入ってきた。瞳は良太と目を合わせ、笑顔で手を振っている。余裕でいられるのは今の内だと、吉子は心の中でほくそ笑んだ。


「保護者の皆様、お待たせいたしました。これから、かけっこを始めていきたいと思います。まず最初に走るのは、進君と良太君です!」


 進は、良太とともに走るようだ。藤松が皆に言うと、拍手が起きた。

 

 拍手を浴びながら、進と良太がスタートラインの手前に立つ。保護者達は、その周りを囲んで声援を送り始めた。


 するとその時、吉子はどこからか視線を感じた。ふと顔を上げて、その方角に目を向ける。


 視線の先には、瞳の姿があった。瞳は目が合うと、よろしくと言わんばかりに、吉子に笑顔で会釈をしてきた。


 その様子を見た吉子も、薄っすらと笑みを浮かべた。そして鼻をフンッと鳴らし、瞳から視線を外す。そしてスタートラインの手前に立つ、進の方に目を向けた。


 藤松が玉をセットし、ピストルを右手に持つ。進と良太が、走る準備をし始めた。吉子はバッグからスマートフォンを取り出し、ビデオ撮影を開始する。


「それでははじめます! いちについて!」


 藤松がピストルを上に向ける。進と良太が、緊張した面持ちを浮かべた。


「よーい!」


 藤松の掛け声に合わせ、二人が走るポーズを取った。


――パーン!


 ピストルの音と共に、進と良太が走り出す。周りの保護者達の歓声が響き渡る中、吉子は思わず目を見開いた。


 進よりも、圧倒的に良太の方が速い。進は良太に追いつこうと必死だが、大きく距離を空けられていく。


「まあ凄い! あの子とっても速いわ」


「本当本当。凄いわね!」


 周りの保護者達が、口々に良太のことを褒め始める。その直後、良太がゴールテープを切った。


 それを追いかけるように、進もゴールした。吉子は呆気に取られたまま、持っていたスマートフォンを下ろした。


「あ、あら良太君……。今日は調子が悪かったのかしら……?」


 晴美が顔を引きつらせて、苦笑いを浮かべながら吉子に言った。晴美の隣の文子も、表情がとても強張っている。


「あ、い、いや。そんなことはないわよ。お、おかしいのはあの子よ。進ちゃんは至って普通よ!」


 吉子はどもりながら、大きな声で晴美に言った。激しく興奮しているため、段々と羞恥心が薄らいでいく。


 吉子は前を向き、藤松の方に視線を向けた。藤松はゴールした二人に、笑顔で拍手を送っている。その姿を見た吉子は、黙っていられなくなった。


「ちょっといいかしら!?」


 吉子は大声で叫んだ後、自分の手を高く上げた。藤松が驚いたように目を見開き、吉子の方を見る。


 ピストルを地面に置き、藤松が吉子の元へ駆け寄る。不安そうな表情を浮かべたまま、顔色を窺う素振りを見せた。


「どうかなさいましたか?」


「『どうかなさいましたか?』じゃないわよ!」


 藤松の問いかけに、吉子は再び大声を出した。そして吉子は、保護者達の注目を浴びながら、良太の方へ視線を向けた。


「私見たのよ! あの良太っていう子、をしていたわ!」


 吉子が大声で言うと、保護者達がし始めた。その中には、戸惑った様子のまま立ち尽くす瞳もいる。


「あの、越智さん。私がスタートラインから見ていた限りでは、二人ともゴールまでしっかりと走っていました」


「それはスタートラインから見えた光景でしょ? 側面から見ていたら、確かにあの子はずるをしていたわ! ねえ晴美さん。文子さん」


 吉子は後ろにいる晴美と文子に、同調を求めた。晴美が壊れたロボットのように、何度も首を縦に振る。文子も表情を強張らせたまま、小さく頷いた。


 吉子が腕組みをして、藤松の方へ向き直った。藤松は困惑した様子だったが、何かを思い出したような顔をした。


「そう言えば越智さん。先程ビデオ撮影をされていませんでしたか? そちらを確認させていただいてもよろしいでしょうか?」


「何? 私が嘘を言っているとでも言いたいの?」


「いえ。そういうことではなくて――」


「さっきのは保存してないわよ」


「え?」


 吉子がまた堂々と嘘をついた。もちろん先程のビデオは、しっかりと保存されている。藤松はどうすれば良いか分からなくなったのか、一瞬だけ固まった。


「――しかし吉子さん。進君と良太君は、もう走りきっています。ですので、やり直しを行うというのは、二人の負担になるかと――」


「うちの子がされたまま終われと言うの?」


 吉子の反論に、藤松はゆっくりと視線を逸らした。もうお手上げの様子だ。保護者達も静まり返り、場の空気が張り詰めたその時だった。


「あのー?」


 かけっこのラインを挟んだ向こう側から、女の声が聞こえてきた。藤松が後ろを振り返る。吉子も藤松に続いて、声のする方へ視線を向けた。


 声の主は瞳だった。瞳はいつの間にか、そばに良太を連れている。潔く負けを認めることを、吉子は期待した。


「進君がよろしければ、良太がもう一度走りたいと言っています。どうでしょうか?」


 瞳の意外な提案に、吉子は僅かに目を見開いた。瞳の隣の良太も、まだ走る気満々の様子だ。


 その様子を見た吉子は、進を探した。進はゴール付近で立ち尽くしている。吉子は進の元へ、小走りで駆け寄った。


「すすむちゃん」


「ママ」


 吉子は進の名前を呼んだ。そしてその場で中腰になり、進の目をじっと見る。


「すすむちゃん。もう一どはしりたいわよね?」


 吉子はできるだけ声を高くして、進に問いかけた。だが必死になっているため、顔はかなり引きつっている。進はそれを見て察したのか、吉子に小さく頷いた。


「わかった。もう一かいはしるよ」


「えらいわ」


 吉子は進に笑顔を向け、ゆっくりと立ち上がった。そして後ろを振り返り、藤松と瞳の方を見る。


「うちの子も、まだ走れると言っています」


 吉子の言葉に、藤松が安堵したような表情を浮かべた。だが隣の瞳は、頷いてはいるものの、もう愛想笑いは浮かべていない。


 吉子はその様子を気にすることなく、進の手を取った。そしてスタートラインの方へ、ともに歩いていく。良太も母親である瞳から離れ、一人でスタートラインへと向かい始めた。


 二度目のチャンスを手に入れた。次こそは絶対に勝ってほしい。だがスタートラインに近づいていくに連れ、吉子の中で不安が膨らんでいった。


 先程は僅差で負けたのではない。かなり差が空いていた。それに嘘をつき、ゴリ押しでチャンスを手に入れたのだ。ここで進に負けられたら、面目が立たなくなってしまう。


 それに良太は、もう一度走ることをすぐに引き受けた。まだまだ余裕は残っている様子だ。その一方で進は、若干疲れているように見える。


「さあ、すすむちゃん。がんばってはしるんよ」


 スタートラインの前で、吉子は進の手を離した。そしてそのまま後ろを振り返らず、元いた場所へと戻っていく。


「吉子さん。大丈夫なんですか?」


 元いた場所へと戻ると、晴美が心配そうに尋ねてきた。吉子はスタートラインの方に視線を向け、進と良太を交互に見る。


「次こそは、ちゃんと走ってもらわんと」


 吉子は独り言のような小さな声で、晴美に言った。太陽が雲の隙間に隠れ、周りが暗くなり始める。吉子は僅かに手汗をかき、それをぎゅっと握りしめた。


 進の隣に良太が立った。藤松もピストルの準備をして、二人の横に立つ。吉子は再びバッグから、スマートフォンを取り出した。


「いちについて!」


 藤松がピストルを高く上に挙げた。進と良太の表情が、先程よりも強張る。ざわざわしていた保護者達も、一気にお喋りをやめた。


「よーい!」


 進と良太が走るポーズを取った。


――パーン!


 進と良太が走り始めた。だが二人が走り始めた瞬間、吉子は絶望の余り、手に持っていたスマートフォンを落としそうになった。


 一回目よりも、進は良太に大きく差を空けられていく。そして良太は、最後まで速いスピードをキープし、進よりも先にゴールテープを切った。


 周りの保護者達が歓声を上げ始める。吉子は気が遠くなり、遂に持っていたスマートフォンを落とした。


「吉子さん。大丈夫ですか?」


 晴美の言葉に、返事をする気力もない。進は完全に良太に負けた。吉子はゆっくりと、落としたスマートフォンを拾い上げた。


 良太にかなり遅れて、進もゴールした。その直後、周りの保護者達の拍手が、うるさい蝉の鳴き声のように吉子の耳に響いた。


        *


 全園児のかけっこが終わり、参観授業が終了した。文子は逃げるように、自身の息子である海斗かいとと先に帰っていった。そのため吉子は、晴美と教室の前で、進が出てくるのを待っている。


「吉子さん。あまり進ちゃんには、キツく叱らないでくださいね……」


 後ろにいる晴美が、恐る恐る小さな声で吉子に言った。吉子はその言葉に腹が立ち、晴美の方へ振り返る。


「何? 何で貴方に、進のことまで指示されんといかんの?」


「いえ。そういうことではなくて……。進ちゃん、かなり落ち込んでいるみたいだから……」


 晴美が教室の中にいる進を見て、恐る恐る吉子に言った。吉子も教室の中に視線を向け、進の方を見る。


 確かに進は、落ち込んでいる様子だ。だが結果的に、進は良太に負けたのだ。誇り高き越智家が、どこの馬の骨か分からない貧乏人に負けたのだ。吉子はそのことで、頭がだった。


「落ち込んでいようと関係ないわ。これには厳しい躾が必要よ」


「しかし吉子さん――」


「貴方に指図される筋合いはないわ。もう黙っててちょうだい!」


 吉子のキツい言葉に、晴美は目をバチバチさせた。これ以上、言い返すことはできないと思ったようだ。吉子は鋭い視線を保ったまま、再び教室の中を見た。


 すると進が、帰る準備をして教室から出てきた。かなり怯えている。顔色を窺いながら、吉子たちの方へ近づいてきた。


 するとその直後、教室から良太も出てきた。良太の後ろには、母親である瞳もいる。


「すすむくん」


 良太は出てくるなり、進に声をかけてきた。進が良太の方へ振り返る。後ろに立っている瞳も、二人に笑顔を向けていた。


「きょうはいっしょにはしってくれてありがとう。たのしかったよ!」


「――うん」


 良太の言葉に、進が間を空けて返事をする。吉子は馬鹿にされているように感じ、進の手を引っ張った。


「帰るわよ」


「吉子さん」


「貴方は自分の娘が出てくるまで、一人でそこで待っていれば良いでしょう?」


 吉子は言葉を吐き捨てて、進の手をやや強引に引っ張った。そしてスタスタと、早足でその場を後にする。


 貧乏人に馬鹿にされた。これは越智家の恥であり、進にはキツい躾が必要だ。吉子は帰宅した後、進を叱責するつもりでいた。

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