第1話 見苦しい女

 ギラギラと燃える太陽が、容赦なく照らしつけてくる。吉子はそんな中、息子のすすむが通う幼稚園へと向かっていた。


 今日は幼稚園で授業参観が行われる。月に一回のペースで行われるこのイベントに、吉子は必ず出席するようにしていた。


 正門の前まで来た。門の扉を開けて、そのまま中へ入る。中では二人の女が、向かい合うようにして立っていた。


 二人の女が吉子に気付いた。そして笑顔で手を振ってくる。吉子のママ友である山本晴美やまもとはるみ、そして米沢文子よねざわふみこだ。吉子は澄ました表情で、二人に手を振り返した。


「吉子さん。おはようございます」


「おはようございます」


 晴美に続いて、文子も吉子に挨拶をする。吉子はそんな晴美と文子を交互に見た。


「ごきげんよう。お久しぶりね」


「お久しぶりです。吉子さん、今日もお洋服が素敵ですわ」


「あらあらありがとう。普段着ている服とそんなに変わらないわよ。オホホホホ」


 晴美がいつものようにお世辞を言ってくる。吉子は表向きでは謙遜したが、参観日なのだから当たり前だと内心思った。


「そうそう。そう言えば今日ね、新しい子が転園してくるみたいですよ」


 文子が思い出したような表情で、吉子に言った。


「まあ。そうなん? どんな子なの?」


 吉子は気になって、どんな子なのか聞き返した。家柄でマウントを取る吉子にとって、相手が裕福か、同等か、それとも貧乏なのかは重要な情報だ。


「それが、私も話で聞いただけなので、どんな子なのかは分からないんです。ですが、今日から入ってくるみたいなので、この後分かると思いますよ」


「――なるほど」


 文子の返答に、吉子は考える素振りを見せてから返事をした。この時吉子は、何故か嫌な予感が払拭できずにいたのだ。もしかしたら越智家よりも、裕福な一族かもしれない。


 全園児の中で、今のところ越智家が一番裕福だ。そのステイタスが崩れてしまうことに、吉子は強い危機感を抱いた。


「吉子さん。どうしたんですか?」


「ん? あ、いや大丈夫。ちょっと考え事をしよっただけよ」


 吉子は我に返り、平静を装ったまま晴美に返事をした。晴美は一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。


「そうですか。それじゃあ、教室に向かいましょうか」


「ええ。そうしましょう」


 晴美の問いかけに、吉子が返答する。そしてそのまま、三人で教室に向かって歩いていった。


 それにしても、やはり転園してくる子のことが気になる。何故こんなに嫌な予感が払拭できないのだろうか。吉子は自分でも分からないまま、重たい足取りで教室へと向かった。


        *


 進のいる教室が見えてきた。後ろの扉から、吉子が先に中へ入る。チラッと後ろを振り返ると、続いて晴美と文子も入室してきた。


 そのまま中に入っていくと、進が後ろを振り返った。そして母親である吉子を見つけ、恥ずかしそうに手を振ってくる。吉子は冷静さを保ったまま、進に手を振り返した。


「進ちゃん、相変わらずしっかりしているわね。それに比べてうちの子なんか……」


 晴美が自分の娘を見て、呆れたような顔をした。晴美の娘である千沙ちさは、隣の女の子と大きな声でお喋りしている。


「まあ良いやない。子どもは元気が一番よ」


「そうでしょうか? でも……」


 吉子の言葉に、晴美が戸惑ったような表情を浮かべる。吉子はそんな晴美を見て、フッと作り笑いをして見せた。


 だが吉子は、内心では晴美のことを見下していた。母親譲りで何て見苦しいのかと。そして改めて、大人しい進の姿を見た。やはり自分の息子は、他の子たちよりもリードしているように見える。


「おはようみんな。さあ、まえをむいて」


 するとその時、担任が教室に入ってきた。藤松真理ふじまつまり。まだまだこれからという感じの若い女だ。藤松が教室に入ると、園児達は静かに前を向いた。


「保護者の皆様、おはようございます」


 藤松が教卓の前に立ち、笑顔で頭を下げる。吉子を含め、保護者の皆も軽くお辞儀をした。


「今日は朝早くからお越しいただき、誠にありがとうございます。今日は予定通り、を見ていただこうと思います。隣の席の子が、本日のかけっこのペアです。息子さん、そして娘さんの頑張っている姿を、温かい目で見守っていただければと思います」


 藤松が教卓の上の資料に目を通す。そして再び、顔を上げて保護者の方を見た。


「それから今日、新しく転園してくる子がいます。お母様と共に、教室の外でお待ちいただいております。先にその子の紹介をしてから、授業に入っていきますので、どうかよろしくお願いいたします」


 藤松の言葉を聞いて、吉子は遂にきたと思った。早く見てみたいという気持ちが高まってくる。それに母親も一緒にいるとは、かなりの見物みものだと思った。


「それじゃあみんな、きょうはあたらしいをしょうかいします。りょうたくん、りょうたくんのおかあさん、きょうしつにきてください」


 藤松が声を掛けると、廊下から足音が聞こえてきた。緊張の瞬間だ。吉子は廊下の方に視線を向けたまま、自分の心臓が高鳴るのを感じた。


「失礼します」


 女が息子と手を引いて、教室に入ってきた。それを見た瞬間、吉子の肩の力は一気に抜けた。目の前にいる女は、服装がとても地味だ。そして明らかに、裕福でないことが見て取れる。


 女は息子と手を引いたまま、藤松に促されて教卓の前に立った。そして深々と頭を下げ、皆の方を見る。


「初めまして。わたくし、天野瞳と申します。隣は息子の良太りょうたです。皆様、どうぞよろしくお願いします」


 瞳が再び頭を下げると、拍手が起きた。何て見苦しい女だ。吉子はそう思い、拍手をする代わりに鋭い視線を送った。吉子の隣にいる晴美と文子も、察したかのように拍手をやめる。


「はい。りょうたくんと、おかあさんのさんです。さあ、りょうたくんのおせきはあそこだよ」


 藤松に促され、良太が自分の席へと向かい始める。席は進の隣のようだ。そして進のかけっこのペアも、この見苦しい女の息子のようだ。


 吉子は蛇のような鋭い視線で、良太を舐め回すように見た。進は走るのが速い。これは面白いことになりそうだと思い、かすかに笑みがこぼれた。


「それではお母様、ありがとうございました。しばらくの間、後ろでお待ちください」


「ありがとうございます」


 瞳がお辞儀をして、前の扉から教室を出る。どうやら廊下を通って後ろから入ってくるようだ。そう思っていると案の定、瞳は後ろの扉から入ってきた。


 瞳が入った所で立ち止まり、お辞儀をする。他の保護者たちもそれに反応して、軽く頭を下げた。だがそんな中、吉子と晴美、そして文子は頭を下げなかった。

 

 代わりに吉子は、先程の蛇のような視線を瞳に向けた。だが瞳は、吉子の視線に気付くことなく、そのまま前を通り過ぎていく。


 瞳が吉子のすぐ近くに立った。そしてそのまま、良太の方に視線を向ける。余裕そうな態度にイラついた吉子は、更に鋭い視線で瞳を凝視した。


 すると瞳は、周りの保護者達に声を掛けられ、挨拶をし始めた。一人ひとりに笑顔を向け、順番に頭を下げていく。そして最後に、瞳は吉子の鋭い視線に気が付いた。


 だが瞳は、周りの人と変わらず笑顔を向けてきた。吉子が鋭い視線で睨みつけているにもかかわらずだ。そして極めつけに、瞳は吉子の方に体を向け、周りの人と変わらず頭を下げてきた。


 何て図太いのだろう。その様子が生意気に感じられ、吉子は余計に腹が立った。そのため瞳の挨拶を無視し、視線を別の所へ移す。


「それでは、かけっこの準備に入っていきます。お子様たちは教室で着替えを行いますので、保護者の皆様は運動場へご移動ください」


 資料に目を通していた藤松が、顔を上げて保護者達に告げた。いよいよかけっこが始まるようだ。保護者達は指示通り、順番に教室を出始めた。


 その中に紛れて、吉子達も廊下に出た。廊下では他クラスの先生が、保護者達を誘導している。


「吉子さん。かけっこ楽しみですね」


 晴美が移動しながら、吉子に声を掛けてきた。隣にいる文子も、同調するかのように頷いている。


「本当。いつも以上に楽しみですわ」


 吉子は言い終えた後、思わず笑みがこぼれた。晴美が口を開けたまま、不思議そうな顔で吉子を見る。


 進に負け、半泣き顔になっている良太。そしてそれを見て、悔しそうな瞳の表情。吉子は想像しただけで、実に愉快だった。


 どんな時でも、勝つのは私たち越智家だ。あの親子にはそのことを、存分に見せつけてやろうと思った。

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