この部屋にはチリトリがない
詩一
そしてゴミ箱もない
この部屋にはチリトリがなかった。
ことの始まりは床の埃が気になったとか、そんなところからだった。僕は部屋の壁に視線を向けて、箒を探した。すぐにそれは見つかり、僕は床掃除を始めた。
それからしばらくしてのこと、周りの人たちも床掃除をしていた。皆思い思いの方向へ掃くものだから、埃はどこにも集まらず散乱した。
誰かが声を上げ、埃は同じ場所に集めることになった。すると埃はどんどんと集まっていき、やがて小さな山が出来上がった。ちょうど僕の膝下あたりくらいの大きさだった。
この部屋は大きくはない。それでもたくさんの埃が出て来た。考えてみれば埃は、部屋の壁屋や天井から突然に降り注ぐものではなく、人の衣服から少しずつ出てくるものだ。部屋の大きさとは関係なく、人が動けば埃は出て、そこかしこに散らばる。
この部屋の中にいる人間を数えたことはなかったけれど、それなりに多くの人がいるように思えた。中には、一度会ったきり見なくなった人もいるし、今までどうして顔を合せなかったのだろうと言うくらい、途中から頻繁に顔を見る人もいた。
きっとそういう人たちは部屋の外からやって来たのだろうと思った。僕は部屋の外へ続く扉のことはよく知らない。存在は知っているが、部屋のどこにあるのかとか、内開きなのか外開きなのかとか、木製なのか鉄製なのかとか、詳細については知らなかった。
僕はこの部屋を出て外の世界を見てみたいと言う好奇心より、部屋の中に戻れなくなったらどうしようと言う不安の方が勝っていた。だから、扉を探そうともしなかったし、周りの人に尋ねることもしなかった。
数日、数カ月と時間は流れ、埃の山はついに僕の背丈を越えた。僕もその周りの人々も、だからと言ってそれをどうしようとは思わなかった。これまで通り埃を一か所に溜め続けていった。
さらに月日を重ねると、周りの人々が体調を崩しはじめた。皆、くしゃみや咳が止まらなくなったのだ。僕も多分に漏れず不調で、そのころから鼻水が良く出るようになっていた。
ある日、埃の山の頂上から埃が舞い、空気に溶け込んでいるところを目撃した。山の頂上はもう天井にまで達していた。限界である。
そのことを皆に告げ、話し合うことにした。このままではこの部屋に居る人々は皆病に侵されてしまう。
「部屋の外に出ていく用事がある人がついでに埃を持って出てはどうか」
僕はそう提案した。しかしそれはあっけなく却下された。と言うよりできなかった。もとよりこの部屋にはチリトリがない。よしんばチリトリに変わるものがあったとしても、ではその埃をいったいどこへ持って行けばいいのかと言う話である。
元々他の部屋に住んでいた人——ドラミニが言うには、扉の向こう側にもまた部屋が広がっており、そこにも人が住んでいるので、自分たちの埃を捨てる場所がないとのことだった。
この部屋のみならず、他の部屋にもゴミ箱はなかった。集めても、捨てられない埃。
では床掃除など始めなければ良かったのだろうか。僕が首を捻って唸ると、「いいや」とドラミニは言った。なにしろ彼女は、元々居たその部屋があまりに汚かったから逃げて来たのだ。彼女が居たそこはこの部屋よりももっと早くに病気が蔓延し始めたそうだ。汚い床を皆が歩くたびに埃が舞い、人々は喘息になったのだと言う。だからこの部屋の人々が始めた掃除は間違った行為ではなかったと付け足した。
僕はそれを聞いて安堵した。自分が始めたことがきっかけで人々の健康が脅かされているとしたら、自責の念で潰れて死んでしまっていただろう。
しかしそうは言っても事態が好転したわけではない。
「俺はこの部屋を出るぜ」
ずっとこの部屋に住んでいたイトウは言った。
どこかにゴミ箱があるかもしれないと言う話だが、おそらく彼は探しには行かないだろう。ここから出て安全な場所に避難したいと言うだけに違いない。しかしそれは望むところだった。別段、掃除する人は減って行ってもいい。寧ろ今は人が減ることによる埃の排出量の低下が望めた方が良い。だから、どんどんいなくなればいいと思った。
そんな僕の期待とは裏腹に、部屋を出ていく人はそれほど多くなかった。残った人々は僕と同じ考えなのだろう。外へ行くことに不安を覚えている。
それからしばらく僕は鼻水と戦いながらその部屋で暮らした。ここより酷い環境から来たからだろうか、ドラミニは平気そうだった。
空気中に溶けた埃がいよいよ肉眼で確認できるほど濃くなってきたころ、僕は喘息を患った。
僕がいよいよ外の部屋へ移動しようかと考え、扉の前に立って迷っていると、突然扉が開いて外の部屋から人が来た。彼女はスミスと名乗った。
「スミス。来て早々悪いけれど、帰った方が良い。ここの環境は日に日に悪くなっていっている」
僕は開口一番帰るよう助言した。スミスはとても健康そうだったが、この部屋に長くいると病気になることは明らかだった。
「そうだろうね。だから私は一つのアイデアを持って来た」
どうやらスミスは今のこの部屋のことを知っていて来たようだった。助言を返された。
彼女が言うアイデアを聞いて、名案だと頷いた。
長くこの部屋に居た人々からは、現状打破のアイデアが出なくなっていた。ただ目の前の状態を受け入れながら、山が崩れないようにと祈りながらゆっくりと掃除をする。緩慢な死の訪れを待つだけの、動く人形に成り果ててしまった人々からは。
僕から彼女のアイデアを皆に伝えると、皆一様に「それはいい」と頷きを返した。そうして、部屋の住人たちはスミスのアイデアを実行に移すことにした。
皆が都合の良い時間に招集をかけ、僕は埃の山の前でマッチを擦った。
そう。燃やしてしまえばチリトリを探す必要も部屋の外へ持ち出す必要もない。この部屋の中で解決できる。
火を投げ入れると埃に燃え移り、たちまち炎になった。
火花が散るパチパチと言う音が、あたかも拍手のように思えた。これですべての問題は解決する。拍手喝采に包まれ、皆の瞳には炎がゆらゆらと揺れて光った。
だがすぐに異常が発生した。
「ゴホゴホゴホッ!」
皆が苦しそうに咳をしている。煙だ。埃のときとは比べ物にならないほど肺が痛んだ。
煙はどんどん濃くなり、視野はどんどん悪くなっていった。その中で、なぜか天井はいつもより明るく感じた。よくよく見てみると、オレンジ色に燃えていた。埃の山から立ち昇った炎が天井に引火したのだ。
「こっちだ!」
誰かの——多分スミスの声が聞こえた。
部屋の住人は声のする方へ向かって走り出した。
床になにかが転がる物音と泣き声。それが、転んだ子供のものだと気付いたのは音がした直後のことだった。振り返ったが、しかし視界に映るのは灰色の煙のみ。とても見つけ出すことはできない。僕は泣き声を背に走った。自分だけじゃあない。他の誰かにだってきっと、助ける義務はあっただろう。僕だけじゃあない。僕だけじゃあ。
僕は気付いたら扉を潜り抜けていた。ずっと臆して行けなかった外の部屋だ。
まだ中からいくつかの声は聞こえてきたが、やはり煙で見ることはできない。ドラミニもまだこの部屋に来てない。きっと中にいるのだろう。しかし助けに戻っても自分が命を落とすだけだ。それぞれがこちらに向かって来てくれた方が助かる見込みがあるに違いない。いや、だが本当にそうか。僕はこのままここで立ち尽くしているだけでいいのだろうか。イトウは……いや、イトウはもうずっと前に他の部屋へ行ったか。混乱している。
僕が迷っていると、隣から現れた人が扉に手を掛けた。白くやわらかな手。スミスのものだった。
「なにを」
「このままではいけない」
彼女が見上げる。合わせて僕も目線を上げると、天井には白靄が揺蕩っていた。この部屋にも煙が溜まってきている。扉を閉めなければ、こちらの部屋に居る人々にも被害が出てしまう。
「まだ中に人がいる」
「だから開けっ放しでいろと?」
彼女は、落ち着いた声色で言った。この部屋の人々も巻き添えにしろと言うのか、と表情が言っていた。
僕は力なく項垂れて首を振った。同時に、扉は閉められた。
※ ※ ※ ※
火事が起きてから数日を置いて、スミスが動き始めた。僕が元々いた部屋の扉を開けて中を探索しに行ったのだ。彼女の報告を聞くに、どうやら火は消えており、そこに居た人々の生命も潰えていたようだ。
彼女は戻ってくると、部屋の端に寄せてあった埃の山から埃を一部持って隣の部屋に行った。驚くべきことに彼女はチリトリを持っていた。一か所に寄せた埃を運ぶことができる道具を。
帰って来たとき、彼女はチリトリをぶら下げていた。埃は隣の部屋に置いて来たと言うことだ。それを何度も繰り返して、しばらくしたら別の人が代わり、また埃を運んでいった。山になっていた埃は次第に減っていった。
まさか……初めからその気だったのだろうか。僕はにわかに沸き起こった疑念を彼女にぶつける。
「騙したのか?」
彼女は首を振る。
「騙してはいない。埃の山を燃やせば、埃の山は消えると言った」
「こうなることを知っていた?」
「他に方法がなかった」
その回答は、言外に「知っていた」と言っているようなものだった。
僕が掴みかかると彼女は視線を逸らしながら、しかしはっきりとした声を出す。
「この部屋で、初めて掃除をし始めた人間がいた」
彼女は僕に視線を戻した。
「この私だ。結果は君も見た通りだ。埃の山が築き上げられただけ。部屋の環境は徐々に悪くなっていった。私は行動を起こす必要があった。君は、行動を起こさなかったようだがね」
僕は黙った。他の部屋よりはマシな選択をしたはずだと言う言い訳を重ねて、緩慢な死を受け入れていた。周りを巻き込んで、緩やかに終わろうとしていた。
「責任があった。私はこの部屋の住人を守るために、隣の部屋に埃を持って行くことを決心した。この部屋にはチリトリがあったから。しかし君の居た部屋はすでに埃の山が築かれていた。だからアイデアを授けた。この部屋が助かるためのアイデアを」
振り返ってみれば、あるのは後悔ばかり。自分の怠惰と無知がもたらした災厄。人災だ。
「自分が助かるために、他の部屋の人を蹴落とすようなことをして、良いと思っているのか」
「善悪で言うなら私は悪だ。が、この部屋の人たちにとって良いことをしたと思っている」
「隣の部屋に居た僕を前にしてもそんなことを言うのか」
「君は今、この部屋の住人だ」
僕は自分の置かれた状況を遅まきに理解した。
「この部屋に居たくないのなら、元の部屋に戻ってもいい」
彼女が指した部屋からは今もまだ焦げた匂いが漂ってきている。チリトリを持った人が行ったり来たりを繰り返している。いずれまた、埃の山が築かれるのだろう。そんな部屋に戻ることなど、できるわけがない。
「ここに残り、この部屋の住人になるなら、埃を運び出すのを手伝ってくれ。この部屋のために」
僕は悩んだが、しかしスミスの提案以外に方法を思いつかなかった。
※ ※ ※ ※
不思議なもので、埃を運び続けていると、自分が住んでいたはずの部屋もただのゴミ箱のように思えて来た。箒で掃いた埃をチリトリで運んで捨てる場所なのだから、ゴミ箱で違いなかった。部屋から人を追い払えば、ゴミ箱は作れるのだなと妙に感心してしまった。
数年が過ぎ去ったころ、僕が元々いた部屋も埃で溢れ返ってきてしまった。どうしたものかと困っていると、スミスにマッチを渡された。僕は得心して元々いた部屋に向かって行ったが、途中で腕を掴まれた。
「待て待て。どこを燃やす気だ」
「埃を燃やすのだろう?」
「君が元居た部屋はもうすでに一度燃えてしまっている。もう一度は耐えられないだろう。そこが壊れたらこの部屋もどうなるかわからない」
「ならこのマッチはなんのために渡したのだ?」
「数年前、私が君の部屋でなにをしたか、覚えているだろう。この部屋を守るためにしたことを」
彼女はそう言いながら僕が行こうとしていた部屋とは別の部屋に続いているであろう扉を指した。
「え……」
彼女は数年前、僕が住んでいた部屋を訪れてアイデアを提案した。この部屋を守るためのアイデアを。
僕は逡巡したが、マッチを胸ポケットにしまって別の部屋へ続く扉へと向かった。扉のノブに手を掛け、止まる。
僕は行動を起こせなかった人間だ。結果、周りの人々は病気になり、挙句スミスに唆されて自分が住む部屋を燃やすことになった。今でもまだ僕は後悔している。
「僕は、この部屋の人間だ」
立場が変われば、正義も変わる。
「今度は守って見せる」
弱音と倫理を捻じ伏せる意気込みを吐き出し、勢いよく扉を開けた。
この部屋にはチリトリがない 詩一 @serch
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
書くよ無/詩一
★137 エッセイ・ノンフィクション 連載中 50話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます