第5話 ルビーチョコレート
「なかなか、一人前になれないんだよ。上には上がいてどんなに血反吐を吐くような努力をしてもコンテストにも縁がなくて。こうやって、一人で黙々と基礎を磨くくらいしか、僕には能がなくてね。そもそも、チョコレートからも僕は嫌われているんだろうな、と考えるといつも堪らなかったよ。世間の人はチョコレートなんて好みじゃないんだ、バレンタインデーだってハロウィンのイベントに取られて目立たなくなったし、僕は何を基準に目標を達成したらいいのか、とずっと来る日も来る日も考え込んでいた。そんな時、隣人さんが夜中になるとチョコレートをベランダで食べていると気付いたんだ」
私はチョコレートをもう、三欠片も食べていた。
「普通ならば、若い女性がベランダで、しかも、真夜中にチョコレートを食べているなんてよほどの事情があるに違いない、と思う。何となくだけれども、僕と同じ匂いを感じ取ったんだ。甘いチョコレートとは真逆な初夏の酸っぱい檸檬のようなつらい匂いを。その光景を見て僕は安心したよ。僕らのようなパティシエールは世間から必要とされているんだって」
私は失恋にかまけて、半ば躍起になりながらカカオ成分99パーセントのチョコレートを食べていたのにそんな情けない行動で救われた人がいたなんてナンセンスだ、と私は驚いた。
意地でもミルクチョコレートや糖分の多いホワイトチョコレートを食べようとはしなかった。
真夜中にチョコレートなんてたとえ、カカオ成分99パーセントのブラックチョコレートだったとしても、毎晩のように食べていたら身体に毒だろうに、逆にその投げやりなルーティンで救われた青年がいたのだ。
世の中って不思議。
不思議な出来事がこの世の中にはたくさんあって、その秘密の鍵は思いも寄らぬところに隠れているかもしれない。
私が幼い頃にせがんで読んだ魔法使いが活躍する絵本のように。
「このチョコレート、何でピンク色なんですか」
彼はそのピンク色のチョコレートのようにマスクを外した頬を明るく染めた。
「ルビーチョコ。第4のチョコレートとも呼ばれる、鴇色のチョコレートだ。別に着色しているわけじゃないんだ。このピンク色はルビーカカオと呼ばれるカカオの天然の成分でできているんだよ」
恋人たちのときめく心臓のように揺れる、ローズクォーツのようなチョコレート。
見たこともない、まだ物珍しいチョコレートに私は小さな子供のように前乗りになった。
「初めて食べたけれども、すごく美味しかった」
「ルビーチョコはもう、何年も前から発売されているんだけれどもまだ、知らない人がいたんだね。隣人さんに最初に知らせたのが僕でラッキーだ」
ラッキーだ、と朗らかに笑う君を見て、私の心臓がこのルビーチョコレートのように染まっているのが鼓動を何とか静まり返させながら自覚した。
もう、ブラックチョコレートばかり食べなくていい。
今度からは真夜中ではなく、お日様が優しく照らす、スッポトライトで甘い、甘いチョコレートを食べよう。
その前にダイエットして健康に気を付けないといけないね。
君がこうして、またチョコレートを作ってくれるから。そのためにも体調は万全にしよう。
「ねえ、何で私が物書き見習いだったのを知っているの?」
彼もまた、出来立てのルビーチョコレートを食べていた。
「一度だけ、隣人さんが大きな封筒をこのアパートの前で投函しているのを目撃したんだ。たぶん、作品を仕上げたんだろうな、と思って」
そんな恥ずかしい現場を目撃されたかと思うと顔が真っ赤になりそうだった。
「そして、外からたくさんの本が陳列されているのがよく目に入るんだ。すごい読書家なんだって」
どこで誰が見ているか、分からないというジンクスはこういうことか。
私は壁にかかってあった如月、と記されたカレンダーを見て、明日がバレンタインデーだということを今更になって気が付いた。
真夜中チョコレート 甘くて、苦いこの想いはいつの日か。 詩歩子 @hotarubukuro
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