第4話 見習いさん
私が指摘すると彼は恥ずかしそうに手で頬を擦った。
チョコレートの香りで私が何度もマスク越しから、匂う素振りをしたので彼はドアを大きく開け、廊下の台所を指差しながら言った。
「僕はチョコレート職人なんだよ。たった今、テンパリングをしていたから味見をしてほしい人を探していた」
甘い香りが顔を包み込む。
男の人の部屋にそんな手軽に入室するのもいかがなものか、という疑念がなかったわけでもないが、甘い香りに誘われ、私の両足はすでに彼の部屋へと足を踏み入れていた。
部屋中に溶かした、チョコレートの豊潤な香りが充満している。
台所にもテンパリングするためのボールやデジタル温度計が設置され、美味しいチョコレートを製作するための苦心が滲み出ていた。
見習いチョコレート職人なのだろうか。
お互い、青二才のままの見習いさん。
彼が説明しなくてもこの苦心した跡で如実に分かった。
「何で、あの晩、あんな台詞を吐いたの」
彼はテンパリングした、ミルクチョコレートを器に流し、固まらせる時間、頷きながら答えた。
「君と僕は同じ匂いがしたから。まだテンパリングする前のチョコレートのように」
随分と甘い言の葉を吐く人だ、と妙に感心した。
「あのカツラは?」
彼は知的そうに見える前髪をほぐしながら言う。
その出で立ちからすると随分、警戒心がなく、茶目っ気のある人のようだ。
「ああ。あれ? 何年か前のハロウィンの仮装をクローゼットから引っ張り出したんだ。この前は着てみたかったからたまたま外へ出たら毎晩のようにベランダでチョコレートを齧っている隣人さんを驚かせただけ」
あの謎めいた台詞も彼の他愛もないジョークだったのか、と少しばかり、気落ちしても私の内心は清々しかった。
「あんなジョークのおかげでここ数日、コロナ禍で大変でも救われました。ありがとう」
彼は意気揚々と私に出来立てのチョコレートを渡した。
テンパリングしたチョコレートなんて初めて食べるかもしれない。
特に見習い職人が作った出来立てほやほやのチョコレート菓子なんて猶更。
「座って。せっかくのお客さんだから」
真夜中に食べるチョコレート。
最近では意地でも、真夜中以外は食べなかったのに、私はその手作りのチョコレートを無意識のうちに口へと運んでいた。
十分にパティシエールとして一人立ちしても充分やっていけるレベルだ、と素人目からしたら、手放しで褒められる味だった。
あまりにも美味しかったので一口入れた途端、私は外したマスクをぎゅっと握りしめてしまったくらいだった。
慌ててマスクを付け、的確に感想を言おうとしたら、彼が沈鬱な表情で滑らかに口を開いた。
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