星の後編
天文部の天体観測は夜の七時から八時の時間に開催すると言う。後夜祭の時間と丸かぶりである。後夜祭ではフォークダンスが行われる。恋人や友人との思い出作りに参加する人が多い後夜祭だ。わざわざ天体観測に行く人が少ないのも頷ける。
私は緑から後夜祭の誘いを受けていたが、それを断って薄暗い別館の階段を登っていた。屋上の扉の前にある天文室と書かれた扉。ドアノブの斜め上には文字だけの天体観測のチラシが貼ってあった。
扉の前で一度深呼吸をし、ドアノブに手をかけてゆっくりと開く。
薄暗い部屋の中央にある大きな望遠鏡がうっすらと浮かび上がる。天文台と言えど、地方の学校にあるものだ。円形の部屋はほとんど望遠鏡が占めている。設計時から、天体観測の参加者が少ないことを想定しているかのようだ。
そのような天文室に私以外の生徒は見つからない。あたりを見渡していると、扉の音で気づいたのか、望遠鏡の陰から彼が姿を表した。
「本当に来たのか」
驚く彼を見て、私は思わず笑みを溢す。
「はい。来ちゃいました」
「一年生の頃から天文部の部長として毎年、天体観測を開催していたけど来客は初めてだよ」
彼は苦笑いしながら、続けて、
「初めてのお客だから、どう進めて行けばいいかわからないな」
と、壁にあったスイッチを押した。
すると大きな音を立てながら、ゆっくりとドーム状の天井が開いていく。次第に開けていく夜空に輝く星の光が天文台の中にも差し込んできた。おかげで部屋は電気をつけていないにも関わらず、先ほどよりも視界は良くなった。
小さなドームから見上げる夜空、その幻想的な光景に私は口を開けたままになってしまう。
「まずは肉眼で見えるものを解説していくか」
しかし彼は「あ、それなら普通に屋上からの方がいいか」と、私の手を取る。
「え」
「何だよ」
「ううん」
別に嫌じゃない。不意に手を繋がれたのは、むしろ嬉しくもあったので首を横に振る。
天文室を出て、目の前の扉を開き、屋上へ足を踏み入れる。当然、私は別館の屋上に来るのも初めてだった。
「顔、赤いけど」
「大丈夫」
他の女の人にもこのようなことをしているのかな。してそうだな。そういうところでモテたり、キャーキャー言われたりするんだろうな。そうだったら少し嫌だな、と私の心が呟いた。
「まあ、大丈夫なら、早速教えるよ」
彼は夜空に向かって指を指す。その先には私もよく知る北極星があった。
「北極星。で、あれを尻尾に見立てた星座がこぐま座。ひしゃくみたいな形してるやつ」
と、彼は丁寧に指先でこぐま座をなぞってくれた。
「で、ちょいと西にいって、あれが白鳥座で、夏の大三角」
「ベガ、デネブ、アルタイル」
「おお、よく知ってんな」
「これでも高校受験頑張ったんですから」
そうかよ、と笑いながら彼は続ける。
「今度は東。ペガスス座。秋の四角形ってやつだな。夏の大三角はほとんどの人が知ってるんだけど、こっちはなぜか知ってる人が少ない」
「へー」
「知らなかった顔だな」
彼はその後も見える範囲の星座や星を、一つ一つ丁寧に教えてくれた。それだけで、気がつくと三十分も経っていたほどだ。
まるで一瞬の出来事だった。この時間がずっと続けばいいのにとさえ思った。
「悪い。そろそろ天文台に戻って、望遠鏡使うか」
彼がそう提案し、私たちは来た道を戻る。
「さすが天文部。めちゃくちゃ詳しいですね」
「知らない星もあるよ。むしろそっちの方が多い」
「あれだけ知ってたのに?」
私がそう問いかけると、彼は突然立ち止まる。うっかりタメ口を使ってしまったせいだろうか、と考えた私はすぐに謝ろうとした。しかし、それよりも先に彼の口が動いた。
「名前も付けられていない。存在も知られていない星は、文字通り星の数ほどある。これだけ地球に研究者たちがいて、それでも見つけてもらえないまま死んでいくんだ」
先ほどとは打って変わって低い声。前髪から覗く目に、私は不意にドキッとしてしまった。
「頑張るだけじゃ駄目なんだ。結果を残しても、それでも、運が良くないと見つけてもらえない」
彼はどこか気怠げで、斜に構えて、でもそれなりに、隠した自分の信念を持っている人だと思っていた。その隠された信念が少し漏れ出ているような喋り方だった。それが再び私の好奇心を刺激する。
「……先輩?」
私の声で、彼の顔がよく知ったものに戻る。
「……すまん。つい熱が入った」
「いえ……。先輩が何を抱えているのか、私にはわかりませんけど。私は先輩のこと見つけましたよ」
私はが今かけられる誠意いっぱいの言葉だ。
自分から手を取るのはやはり気恥ずかしく、彼の腕を握る。
その瞬間、後夜祭のクライマックスを知らせる打ち上げ花火が、屋上に二人の影を作った。音に反応し、花火の方を見た彼の横顔には一筋の涙が流れていたのを私は見逃さなかった。
「打ち上げ花火は嫌いだ。すぐに消えてしまうし、……天体観測の邪魔だから」
地面に落ちた涙の粒が、消えゆく花火の粒を反射する。
「すぐ消えてしまう、その儚さが花火の魅力じゃないですか」
「……確かにな。俺も、小さな儚さに魅せられて天文部に入部したんだった。どうしてかな」
彼は嗚咽混じりにそう呟くと、シワの入ったシャツの袖で涙を拭った。
「悪い。望遠鏡はまた今度の機会でいいか?」
辛そうな彼を前に、今にしてくださいとお願いすることはできない。そして、今度の機械の約束をすることも憚られた。それほど彼が何か大きなものを抱えているように見えた。
「すまない」
そう何度も謝りながら、彼は私を残して屋上を去った。
それから学校で彼の姿を見ることは無くなった。しかし、私は彼を探さなかった。
この一連の出来事は、秋風が引き起こした幻覚だったろうか、と何度も思ったのだ。それにしては彼の言葉がしっかりと心の奥底に残っているのだが。
もう一つはっきりしていること。それは、私は彼を見つけられていなかったということだ。見つける前にいなくなった。彼が語った星のように。
『この時間がずっと続けばいいのに』
私は彼と二人で過ごした時にそう思った。
もしかしたら、彼もそう思ったことがあったのだろうか。
それによって私の小さな恋心は儚く散ったのだった。
秋桜コスモス 雨瀬くらげ @SnowrainWorld
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