第2話 出会い

2-1 映画

 勤労奉仕の現場にて先日、監督から受け取った映画の券を持って、涼子はある日曜日の午後、その映画が上映されているという映画館に向かった。

 その映画の券のキャッチフレーズとして、

 <戦う武士団と盗賊団>

とあった。さらに、その下に、

 <武士と盗賊団の追いつ追われつの息詰まる戦い、結果や如何に?>

とあった。

 「映画なんて、本当に何年ぶりかな?」

 館内に入り、座席についた涼子は、内心にて、つぶやいた。

 <娯楽>

のない日常である。強いて

<娯楽>

と言えば、食べることのみかもしれない。しかし、それも、ジャガイモ、カボチャといった根菜ばかりの毎日で、味付けは塩のみである。

 そんなまさしく、

 <味気ない>

毎日の中、今日は久々に、

 <味気ある>

一日であれば良いのであるが。

 映画が始まると、まず、天守閣を擁する巨城がスクリーンに現れた。大名の居城であろう。

 スクリーンの中で、一国一城の主たる大名が、臣下に尋ねた。

 「近頃、わしの領内にて、領民を荒らすものがいると聞く。して、どのような者どもであるか?」

 「は、領民に乱暴狼藉を働いておりますれば、ここ数日内には、兵を送り、抑え込むことができますかと」

 「して、領民の様子は如何じゃ」

 「領民達は皆、上様のまつりことに感服しており、江戸の将軍様、つきましては、都の天子様への覚えも大変、めでたきことにございます」

 「ふむ、しかし、乱暴狼藉を働く者どもを退治せぬと、余の領民達の苦しみを取り除くことはできぬ」

 「は、今、暫しのご辛抱を」

 これ等の台詞は、何かしら、涼子にも、訴えかけて来るものがあったようである。特に、

 「天子様」

という台詞は、何か、訴えかけて来る、というより、引っかかるものがあった。涼子は、藤倉妙子や柴崎富子と共に、既に卒業はしたものの、女学校にて、

 「我が皇国の中心たる天皇陛下は、天子様と呼ばれし頃より、我が臣民の主にて、・・・・・」

等と、さまざまに言われて来たことから、それこそ、

 <日常>

として、何か、彼女自身の注目を、彼女の心中にて引くものがあったのであろう。

 さて、涼子の眼前にあるスクリーン内の領主は、

 <心優しき、良き領主>

らしい。

 他方、

 <盗賊団>

の方はどうか?それは、スクリーンそのものが説明してくれた。

 盗賊の親玉・<弥兵衛>は、山の中の森の中にある砦にて、子分どもに語った。

 「俺たちゃ盗賊に怖いものはねぇ。何が大名だ、天子様だ、俺達は無敵の盗賊団だ」

 弥兵衛は、銀幕の中、居並ぶ子分どもに豪勢に言い放った。とっくりの酒を半ば、がぶ飲みする弥兵衛の台詞は、同じく酒をがぶ飲みし、酔いつつある子分どもへの

 <訓示>

である。子分の1人が答えた。

 「弥兵衛親分、仰せの通りでやす。して、これから、あっしらは、何を狙い、どのように動きますので」

 「何、決まってら、俺らが次に狙うのは、この城下にある金持ちの屋敷よ」

 「大きく出やしたな」

 子分の問いに弥兵衛が答えた。

 「何、間の抜けた連中だ、俺達の力からすりゃ、大したことはねぇ」

 他の子分が言った。

 「そうさ、あっしら、弥兵衛親分の下、一致団結してるんでさ。領主ごときが何を言おうと、俺らの力の前に何程のものぞ。俺等は無敵なんだ!」

 さらに、他の子分が言った。

 「そうさ、俺らは無敵だ!弥兵衛親分、ここは1つ、前祝と行きましょうぜ!あっしらの前途を祝して!」

 「俺もそう思っていたところだった」

 親分は、その子分の呼びかけに応じると、立ち上がり、叫んだ。

 「野郎ども、今宵は、大いに飲み、そして、食せ!俺等、盗賊団の明日を祝う、前祝いだ!」

 砦の中での

 <野郎ども>

 「うおー!」

という叫び声が、一斉に響いた。その後、スクリーンの中では、<野郎ども>が大いに宴を盛り上げた。スクリーンの中からは、

 <野郎ども>

の野卑な笑声が響いて来た。

 涼子は、スクリーンの中の

 <野郎ども>

の野卑な笑声に品のなさを感じつつ、スクリーンの中の宴に羨ましさを感じ、又、大きく引き付けられた。普段の食糧不足故にのことであろうか。

 では、他方、領主の方はどうか?領主の居城にて、侍大将が叫んだ。

 「皆の者、いいか!よく聞け!これから、上様の御命に従い、領民どもに狼藉を働く盗賊団を討伐に参る!敵は、他国の軍に勝るとも劣らぬ連中じゃ!心してかかれ!」

 この言葉に、武士団の

 「うおー!」

という叫びが響いた。武士団の方も士気は高く、準備は良いようである。

 さて、狼藉を働かんとする盗賊団は、山の中の砦から、城下町に降りて来た。

 しかし、そうはさせじと、武士団も備えを固めていた。

 狼藉を働かんとする盗賊団に対し、武士団も、弓矢、槍、場合によっては鉄砲等で対抗した。状況はさながら、市街戦の状況を呈して来た。

 そんな中、誰の撃った鉄砲弾によるものか、弥兵衛のかぶった兜が吹き飛ばされた。同時に、弥兵衛のちょんまげがほどけ、落武者同然の頭になった。

 このシーンに、場内の観客から、笑声が出た。怒る弥兵衛の姿も、かえって、一層、笑いを誘ったようである。

 武士団と盗賊団の合戦の最中、1人の若い侍の左腕に、籠手を貫く形で、盗賊団の放った矢が刺さった。

 屋敷の屋根の上から盗賊団と戦っていた彼は、矢を射かけられたショックで、屋根の上から、屋敷裏の庭へと転げ落ちた。もし、両者の乱戦が続く通りの側に転げ落ちたならば、彼の命はなかったかもしれない。

 スクリーンに見入っていた涼子は、一瞬、さらにスクリーンに引き付けられた。

 そこに、

 <お初>

という女性が現れ、その侍を介抱した。

 若侍が、お初に問うた。

 「そなたは!」

 「この城下の街娘・お初にございます!若様を介抱したします」

 「しかし、拙者の様な者が、そちのような者に助けられては・・・・・」

 「いいえ、何を仰せになります。私どもは、良き領主様のおかげで、今の暮らしがございます!おなごといえども、お役に立ちとうございます!」

 そう、一言だけ言うと、お初は、甲斐甲斐しく、若侍の手当てを行った。

 市中では、未だ市街戦が続いている。両者は半ば、各々、ちょんまげが切れ、髪が乱れ、血を半ば振り撒きながらの乱闘であり、必死の形相であった。

 しかし、両者の

 <追いつ、追われつ>

の死闘の末、ついに盗賊団は捕らわれ、弥兵衛も捕縛された。捕縛された弥兵衛等、盗賊団の一味の周囲を、武士団が取り囲んだ。その中には、先程、お初に手当てを受けた若侍もいる。

 盗賊団の前に、領主が現れ、言った。

 「そちらは、我が領民に狼藉を働き、領民を苦しめた。何ゆえか?」

 領主にすごまれ、しかし、既に抵抗する術の無い弥兵衛等は、涙ながらに答えた。

 「あっしら、生きる術がないんです。それで、悪だくみで暮らしていければ、と」

 侍の1人が言った。

 「領民達は貧しいながらも、まじめに生きておるではないか。それを、そち達は、このようなみっともない立ち振る舞いを・・・・・」

 そう言うと、他の侍が、

 「許し難い、成敗いたす!」

と叫んだ。

しかし、領主の計らいで、弥兵衛以外は処刑されず、まじめにしていれば、領主の御恩

で救われるのだ、という結末であった。

 見終わった後、涼子は

 「久しぶりに楽しんだ」

という感想と共に、外に出た。スクリーンの中の領主の説教のような態度について、では

なく、スクリーンの中に展開される侍の時代という

<異世界>

を楽しんだのであった。まさに、

 <娯楽>

がないことの延長線上であったのであろう。そして、外に出たところ、勤労奉仕の現場で一緒になることの多い同僚・川本佳代子、つまり、現在、列車内にて、隣で寝ている女性と偶然にも出会ったのであった。


2-2 感想


 列車は相変わらず、走り続けていた。時刻は午後10時を回ったようである。車内灯が暗くなった。涼子は隣席の佳代子と同じく、眠りに就くことにした。但し、持ち物が盗まれてはいけない。鞄の肩紐をしっかりとかけなおし、佳代子との間に置く形にした。

 時々、蒸気機関車の汽笛が聞こえてくる以外、大きな音はない。列車のかすかな揺れが、涼子を快く、彼女を眠りに誘った。涼子は、映画のことを思い出しつつも、少しずつ、眠りの世界に落ちつつあった。


 映画館を出たところで、涼子は、自身を呼ぶ背後からの声に呼び止められた。

 「江口さん」

 「え?」

 背後に、勤労奉仕の現場で一緒になることの多い川本佳代子がいた。

 「あら、川本さん」

 涼子は振り返った。

 「偶然ね」

 「ええ、川本さんも、今日、映画を見に来たのかしら?」

 「そうよ」

 「今日は、もう、帰るの?」

 「ええ」

 涼子の返答は別に、嘘でも冗談でもない。この

 <時局>

において、楽しみなどない以上、帰宅以外の選択肢はないように思われた。そうであるからこその、今日の

 <娯楽>

であった。

 「そこまで、一緒に歩く?」

 佳代子の提案に反対する理由もないので、涼子は同意し、2人は、同じ方向に向かって、歩き出した。

 涼子にとって、佳代子は悪い人ではない。むしろ、姉御肌のような女性であった。

 ただ、何かしら、違和感を感じる相手でもあった。やはり、言葉に、西日本の訛りのようなものがあるからあろうか。

 佳代子は、勤労奉仕の現場にて、甲斐甲斐しく働き、あまり、文句も言わない方である。

 涼子などは、勤労奉仕の帰り等には、他の同僚と一緒に、-勿論、周囲になるべく気づかれないように、という注意はしつつも-悪口を言ったりするものである。ことに、かの怒声を発する在郷軍人会出身の暴力監督についてである。

 あるいは、暴力男というべきあの暴力監督の悪口を言っていると、何かしら、心中にある霧のような不平不満を抱えた日々の中で、その不平不満を吐き出すことができ、その時点では、結構、気分が晴れるのである。その意味では、これも一種の

 <娯楽>

であったかもしれない。

 しかし、今日は、映画という、正に、

 <娯楽>

そのものを楽しめたわけである。この

 <娯楽>

を佳代子も楽しめただろうか。

 「江口さんは、今日の映画は面白かった?」

 涼子がまさに思っていたことを、佳代子が問う形になった。

 「ええ、最近、ほら、<時局>もあるから、映画なんて、楽しめてなかったでしょう」

<時局>

という、現状を説明する、まさに

 <日常>

と換言し得る言葉を、涼子は無意識に使った。

 「そうね」

 佳代子は、一言、言った。その言葉に、いつも涼子が違和感を感じる、西日本と思われ

る訛りが出た。

 「川本さんは、どこの出身なのだろう」

 常々、疑問に思っていた涼子であった。

 「川本さんって、どこのご出身ですか?」

 涼子は、思っていた疑問を思い切って、涼子にぶつけてみた。

 「ああ、私?言葉に地方の訛りみたいなものを感じたかしら?」

 佳代子も自分の言葉について、違和感を感じられていることに気づいたらしい。

 「ええ、川本さんって、何か、東京の人とは、ちょっと、言葉が違うでしょう」

 「私はね、多分、 もう、お気づきでしょうけど、西日本のある地方の出身なのよ」

 「やはり」

 涼子は内心でつぶやき、自身の想像が正しかったことを確認した。

 「嫌なことが多いんでね、とりあえず、東京に出てきたのよ」

「え?」

 「聞きたい?」

 涼子は何となく、聞いてみたい気もした。

 日々、面白いことがあるわけでもない。やはり、

 <娯楽>

がない日々なのである。日々、ただ、

 <時局>

に合わせて、政府、軍部といった権力の言うがままに、動くしかないのが、涼子達の日々

であり、大日本帝国の

 <日常>

というべき

 <社会>

の姿であった。先程の映画は、スクリーンの中の世界、つまり、

 <虚構>

である。しかし、佳代子の身の上話であれば、

 <虚構>

ではなく、

 <真実>

であり、マスコミ等を通したものでもなく、ある意味、

 <真の≪娯楽≫>

であろう。こうしたものは、人の関心をくすぐるものであるらしい。

 「なぜ、東京に?」

 「嫌になったのよ、ふるさとがね」

 「嫌になった?」

 「そう」

 佳代子は、自分の過去を語り始めた。

 「私ね、西日本のある山里の出身なの」

 東京という都会で育った涼子としては、あまり、地方のことはわからない。所謂「田舎」

と言えば、幼い頃、親に連れられて遊びに行った記憶はあるものの、物心がついてからは、

経済的困窮の中、どこかへ遊びに行く余裕もなく、東京の中の、しかも、最近では、勤労

動員の現場と自宅の往復しかしていないのが現実であった。

 「私の村は、周囲が山だからね、それこそ山里だったし、多くは顔見知りだったのよ」

 東京では、<隣組>があり、

 「格子を開ければ、顔なじみ・・・・・」

等と歌われるものの、田舎の方は、どうなのか。

 「周囲が顔なじみとはいえ、大きな土地を持っている地主一家がいてね。そこの長男も

徴兵されて、いなくなっているので、次男に家を継がせよう、なんて話があったらしいの

よ」

 それが、佳代子にどのように関係するのか。

 「それで、後継ぎには嫁が要るから、お前のところの佳代子をくれって、うちにその地

主の家の使用人が、度々、来るようになったのよ」

 人間を物のように扱う態度である。その地主一家の失礼な態度に、涼子は心中に怒りが

湧いた。佳代子が

 「うちは小作の家で、その地主家から土地を借りる形になっていたんでね、父も母も

その地主一家の勝手な要求に応じるしかなかったんよ。だけど、私は、その地主家に嫁ぐ

のは嫌だった」

 その相手の男は、どんな男だったのか?

 「その家の男達は、男だから、好きに威張っておってね、長男なんか、長男だから、と

いうだけで、甘やかされて、大威張りよ。村の子達なんか、あいつにいじめられて、泣い

ていたし。まあ、そのバカ長男がいなくなっただけ、村人はマシだったとは言えるけど。

でも、次男も同じことだったのよ」

 「ひどいことね」

 涼子は、佳代子の過去に同情せざるを得なかった。佳代子は話をつづけた。

 「地主に抵抗できない両親は、私の意思を無視する形で、勝手にその次男坊との縁談を

進めてしまったのよ」

 小作として、地主家に抵抗できないゆえにのことであった。

 「でも、村の子をいじめるあんな男との結婚は嫌だった。私自身もいじめられたし。だ

から、この縁談はやめて欲しい、と両親に言うには、言ったんよ」

 しかし、どうなったのか。

 「そしたら、お父ちゃんがね、お前のわがままのせいで、わしら一家の生活がつぶれて

しまうかもしれんのじゃ!お前のわがままは許さん!って怒鳴ってね。母は母で、この周

囲の家々は、地主としての大旦那様にお世話になっているのに、なんてことを言うんじ

ゃ!って怒ったのよ。そして、私の人生って何の!?って怒り返したら、父からびんたさ

れてね。結局、その日の夜、自分の身の周りの物を持って、家出したのよ」

 「随分、大変な思いをされたのですね」

 「まあね、でも、貧しい小作の家だったし、私自身、大した荷物もなかったし。なけな

しの金を持って、東京まで出て来たんよ」

 何と言ったらよいのか。半ば、命がけの大冒険物語であるようである。

 「で、今は、東京でも、労働力不足でしょう。勤労奉仕隊にでも参加すれば、それなり

に暮らせるし、嫌な家からも逃れられるし」

 しかし、彼女は普段、どこに住んでいるのか。涼子は佳代子に尋ねた。

 「川本さん、普段、どちらにお住まいなんですか?」

 「ある男の家よ」

 「東京に出て来てからね、ある男の家に居候しているのよ」

 これは佳代子自身の

 <私的空間>

についての話であり、これ以上、立ち入るのは申し訳ない気がした。涼子はこれ以上は立

ち入らないことにした。

 2人は暫く、歩いたところで、市電乗り場に着き、

 「じゃ、私は、ここで市電に乗りますので」

 そう言うと、涼子は市電に乗り、佳代子と別れた。


2-3 帰路


 佳代子と別かれた涼子は、市電に乗り込み、帰路に就いた。涼子が乗り込むと、市電は

走り出し、車内にモーター音が響いた。

 車窓から見る風景は、いつもの風景である。内地では電力が不足し、停電になることも

しばしばである。こうした状況が何年間も続いていた。

 外を見れば、街路灯は何とか点いているものの、沿線の建物からは明かりが消えている

ものも多い。

 帝都・東京でもこの有様である。佳代子が逃げ出した 

 <西日本の田舎>

とやらは、どんな状況なのであろう。電気も通っておらず、不便な日々なのだろうか。涼

子が幼かった頃、遊びに行った田舎の家にも、一応、電気は通っていた。しかし、しかし、

その家の家人が、 

 「電気の通りが悪くてね、時々、停電があるのよ」

と言っていたのを記憶している。

 <非常時>

と称されて来た頃から続いている

 <時局>

がいつ、果てるとも分からないのが、昨今の 

 <現実>

である。やはり、佳代子の田舎でも、電気は通っていたとしても、停電になることも多いのかもしれない。

 そんなことを考えていた涼子であった。

車掌が、

 「次は○○前、○○前」

と停車場を告げたかと思うと、電車の車内灯が消え、電車そのものが停車してしまった。涼子が心中にて思っていた停電が起きてしまったようである。

 「全く、なんだよ、また」

 同じ車内にいた1人の男性客が舌打ちした。いつものこととはいえ、彼は、家路を急いでいたのかもしれない。

 突然の停電に、涼子は目の前が真っ暗になった。他の乗客もそうであろう。しかし、あ

まり、驚く声は起こらなかった。

 先程の

 「また」

という声にもあるように、物資不足は大日本帝国全土にはびこり、帝都・東京も例外では

ない昨今である。それは、

 <日常>

の風景なのである。しかし、先程の乗客であろうか、

 「こん畜生め、一体、どうなっているんだ、いつまで、こんな生活なんだよ!」

暗闇の中で挙げられた声であった。生活へのいつ果てるとも分からない不便が、怒りの声

になった出たものであろう。

 しかし、その声は同時に、

 <大日本帝国>

という現行の体制への批判ともとれる声であった。

 他の乗客は、涼子も含めて、彼の声に呼応しようとはしなかった。

 <日常>

と化した停電に慣れてしまっていることもあったのであろう。

勿論、いきなりの暗闇の中での大声にびっくりはしたであろう。びっくりして、声を出

せなかったのかもしれない。しかし、びっくりはしたものの、

 <体制批判>

ともとれるこの声に呼応して、後々、特高、憲兵にでも目を付けられたら、どうなるのか。それらは常々、

 <社会>

の側に、

<体制批判>

を封じる重石になっていた。人々をして、心中での声を心中でのそれに留めていたのである。

 10分程、経過したであろうか。停電はいまだに直らない。しかし、暗闇に慣れてきたからか、人々の目は暗順応して来たらしい。涼子も、暗い車内とはいえ、目が慣れ、何となく周囲が見えて来た。

 先程、声を上げたらしい男性が、

 「俺はもう、歩いて帰る」

と言うと、車掌に運賃として、いくらかの小銭を渡し、彼にとって本来の下車場所ではない

 <○○前>

停車場の前で止まっている市電から降りた。

 停電は未だに続いている。他の乗客が声を上げた。

 「運転手さん、まだ、直らないんですか?」

 「はい、すみません。停電では、私どもとしても、どうしようもないんです」

 「だけど、仕事として、電車の運転をしているんでしょう」

 「ええ、そうなんですけど、私達はおっしゃる通り、運転の係であって、電気系統の専門ではなんです。電気そのものが止まってしまったら、どうしようもないんで」

 暗い中にも、困惑と申し訳なさが、運転手の口調から伝わってきた。

 市電は、東京市の経営する交通手段であり、市民へのサービスでもあった。運転手と車掌は、市に雇われた存在であり、言うなれば、

 <体制>

の側の一員であった。それ故に、運転手等への非難の口調も、

 <社会>

の側の日ごろの

 <体制>

への不満と相まって、強い口調になったようであった。

 涼子は、こんな状況の中、

 「一層のこと、さっきの男性のように、電車を降りて、歩いて帰ろうか」

とも思った。停電になって、彼女の乗る市電が止まってから、時間は既に30分以上、経過したようである。このままでは、果てしなく、電車内に閉じ込められるかのようにも思えた。

 そのように考えていたところ、突然に車内が明るくなった。乗客達は突然のことに、少々、驚きの表情となったものの、すぐ、安堵の表情となった。

 それまで、涼子を含め、乗客達は停電に怒りつつも、自身それぞれの世界の中にいたのであろう。しかし、突然の回復は、それを突然に終わらしめたようであった。

 人々は自宅に戻る、あるいは、目的地に向かうといういつもの生活に戻された。

 再び、モーター音が鳴り、電車は走り出した。電車が再び走り出したことで、

 <日常>

に引き戻された涼子達ではあった。

 <非日常>

が、

 <常時>

 <時局>

であっても、各自それぞれに、それこそ、

 <日常>

という名の生活があることは言うまでもないことであった。

 走る市電の中で、涼子は、今日、見た映画について思いつつ、車窓から、外の風景を眺めていた。

 半ば、明かりの消えた家々、建物の間を市電は走って行く。今日、見た映画は、江戸期、あるいは、さらに以前の戦国期を舞台にしたものだったのだろう。

 「ま、今日は昭和36年の今とは違う世界を楽しませていただきました」

 心中でそのように言っていたところ、彼女の乗る市電は

 <××停車場>

に到着した。ここが、彼女が常々、上下車するいつもの

 <日常>

の現場の1つであった。

 乗降口にて、車掌に運賃を支払って下車した涼子は、そのまま、自宅へと向かって歩き出した。

 10分程して自宅に着いた涼子は

 「ただいま」

と言って、玄関をくぐったところ、母・寛子の

 「あ、涼子、お帰り、後から茶の間に来てちょうだい」

という声が応じた。

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