第10話 東京-昭和36年冬-江口家

10-1 たかが・・・・・


 ある日の夕食、しかし、献立は、いつもの如く、ジャガイモ、カボチャといった根菜類のみの夕食の後、基次は、重々しい気分でちゃぶ台の脇に座っていた。

 「あなた」

 妻の寛子が声をかけた。しかし、心中が重々しいのは、寛子も同じであった。この感情は、自分たちで何とかできるものではない。基次は、改めて、自身の意思と無関係にことが動いていることを感じざるを得なかった。また、このことも、寛子にも感じられているであろう。

 「あの日、自分等の食糧事情なんかのために」

 基次は心中にて呟かざるを得なかった。

 「あの基朗の野郎のために・・・・・」

 東京も冬になり、寒さも厳しさを増して来た。ガラス戸を閉め切っていても、冷えが心身にこたえた。燃料の配給もままならない昨今である。寛子は、基次を気遣って、

 「もう、布団に入ったら?」

と声がけもした。しかし、基次は、布団に入ろうとはしなかった。寛子も、そのことは、最初から予測済みであった。

 すっかり、暗くなった東京の夜空ではあったものの、基次は立ち上がり、縁側のガラス戸を通して、黒い夜空をにらんだ。江口家から、長女の涼子がいなくなってから、約1か月ほどが経っていた。

 「涼子は今、どこにいるのか?もし、仮に<北>に入ったとしても、元気でいるのだろうか」

 基次と寛子の親としての共通した感情であった。

 しかし、そうした感情を抱いてみたところで、何ができるというのか。庶民が国家の<体制>に関してできることなど、何もないのである。最早、

 <大日本帝国>

というこの国では、庶民にできることなど、それこそ、-それも不足がちであったものの-<体制>からの配給食糧と、しかし、半ば<体制>を無視した<闇食糧>によって、生活をつなぐことだけだと言っても良い。半ば、

 <食>

のみが、人々が、自主的にできることであった。

 寛子としても、涼子のことは心配である。しかし、何もできない。その現実に基づく感情は基次も同じであることが分かっているからこそ、こんな状況の下、

 「なんとかなるでしょう、元気を出しましょう」

等と言えるはずもなく、殆ど、何も言えないのであった。

 いつまで続く変わらない、沈黙が2人を覆っていた。


 その日、勤労奉仕先から帰ってくるはずの涼子は、夜になっても帰って来なかった。その翌日も、その翌日も、さらにその翌日も、帰って来なかった。

 こんな状況になれば、流石に親としては心配しないわけにはいかなかった。しかし、基次の兄・基朗は、何か自信ありげに-何の根拠があってかは分からなかった-また、

 <古武士然>

たる、威厳があるかのような態度で言った。

 「放っておきなさい。若い小娘が、たかが、厳しく言われた程度で、家を飛び出すなど、まだまだ、未熟。皇国の銃後を担う婦女子の自覚もない甘え者に過ぎない。こんな程度では、銃後の役割は担えない」

 実弟の基次の家とはいえ、基朗は、他人の家に上がり込んで、なおも主人面であった。基次と妻の寛子は、食糧難の折、それこそ、食糧のことがあるので、基朗に対してはつよくは出られない。

 しかし、愛する娘がいなくなり、何日も自宅に戻ってこないとあっては、いつも同様の少ない食事さえも、のどを通らなくなった。

 そして、ある日、ついに、涼子の妹・厚子が切羽詰まった表情で言った。

 「お父さん、お母さん、お姉ちゃんを探そう。もうこれ以上、放っておけない」

 厚子の発言、提案は、主人面の基朗の言葉に反するものであった。しかし、それが肉親の情というものであったろう。

 それに対しても、相変わらず主人面の基朗は

<古武士然>

と、言った。

 「放っておきなさい。わがままを言う小娘を反省させる良い機会だ」

 厚子は、心中で基朗を罵った。

 「何なの、一体この馬鹿おっさん。いつも、偉そうにしていて、しかも、天皇陛下の下、<家族のごとき>なんて、講釈しているくせに。家族そのものが、今、崩壊しているのが分からないのかしら」

 心中とはいえ、この言葉は、基朗への侮蔑として、厚子の表情に出ていたであろう。

 この台詞以外、どんな台詞があり得ただろうか。

 基朗は、厚子の表情から、自身に異を唱えたことを察したらしく、

 「厚子、なんだその態度は、女のくせに生意気を言うか!」

と怒鳴った。しかし、今回は、寛子が厚子をかばった。

 「女だからこそ、家族を大切に思っているんです、義兄さんも良く言いますよね、天皇陛下の下で<家族>云々って。私達とっては、まず、身近な家族が大切なんです」

 「陛下のお立場を何と心得るか」

 基朗がまたも怒鳴った。

 しかし、これまで、兄・基朗に言いなりだった基次が口を開いた。

 「兄さん、もうよしてくれ、そして、帰ってくれ。娘の涼子がいないのは、親として心配で、放っておけない辛さなんだ」

 「誰に向かって、口を利いてるんだ!」

 「あんただよ!兄さんにも生活があるように、俺達にも生活があるんだ」

 厚子の内心の罵声をくみ取る形で、寛子が口を開き、さらに、基次が口を開く形になった。これらの台詞は、皆、

 <生活>

としての文字通り、

 <家族>

としての正直な実感であった。

 これまで、基朗に対して、強く出られなかった基次と寛子であった。しかし、それは、それこそ、

 <家族>

として、避けて通れない

 <生活>

を思ってのことであった。同じく、

<家族>としての<生活>

が害されるのであれば、話の方向性は全く逆になっても不思議ではない。

 意を決したように、改めて、厚子が怒りの表情を顕わにしつつ、口を開いた。

 「お帰りください。それとも、警察、呼びましょうか?」

 そこには、はっきりと、基朗を拒絶せんとする強い意志が表情として現れていた。

 <警察>

というまさに国家権力の具体的名称を提示された基朗は、その語句の前に、多少たじろぎ、

 <古武士然>

の表情を歪んだようである。

 基朗が<古武士然>としていられるのは無論、<食料>という昨今の時代の中での大きな武器を有しているからに他ならない。しかし、同時に、それは、現行の体制の下で、基朗が保護されているからとも言えた。

 基朗の地元では、基朗は、食糧という武器を握っていることで、基朗の立場は盤石であった。この食糧難の折、それこそ、

 <警察>

も手を出せないところがあった。しかし、ここは、彼の

 <地元>

ではない。厚子の表情から思うに、逮捕等が、現実になる可能性も無きにしも非ずである。

 「勝手にしろ!」

 基朗は、荒々しく、足音を立て、玄関に向かい、同じく荒々しく玄関を開いて、力任せに戸を開き、叩き付けるように閉めた。その勢い故に、ガラス戸は跳ね返り、半開きの状態となった。基朗は、そのまま立ち去った。

 興奮して、半ば、息せき切っていた3人であったものの、厚子がとにかくも口を開いた。 

 「とにかくも、手分けしてお姉ちゃんを探そう。私、お姉ちゃんの友人の柴崎さんとか、藤倉さんの結婚した村田さんのところとか、言って来る」

 寛子も言った。

 「お父さん、私達も探しましょう」

 次女の厚子の提案に、基次や寛子も同意し、3人はそれぞれ、涼子を探すべく、半開きになっていた玄関から家を出た。


10-2 友人宅


 厚子はまず、柴崎家を訪れた。

 「すみません、柴崎さん、突然、勝手にすみません。私、江口涼子の妹の厚子と言います。ちょっと、お尋ねしたいことがあるんですが」

 玄関で、戸を叩くと、姉・涼子の友人の柴崎富子その人が出て来た。

 「あら、厚子さん。どうしたの?」

 「数日前から、姉の涼子が自宅に戻っていないんです。ひょっとしたら、こちらでは、と思いまして」

 富子は、厚子の表情にただならないものを感じ、自身も表情を変えた。表情を変えつつも、

 「いや、うちには来ていないけど。お姉ちゃん、本当に帰って来ていないの?」

 「はい、おっしゃる通りなんです」

 姉の手がかりが1つ消えた。親しい友人のもとにもいないとなれば、どこへ行ったのか。

 「ひょっとして、まさか、<北>へ?」

 富子の否定の反応を聞いた厚子は、心中でまさかの想定をした。そして、その想定に、半ば、顔面蒼白の表情となった。である。

 富子は、半ば、顔面蒼白の厚子を見て、いよいよ、ただならぬものを感じた。

 「分かった。じゃ、まず、とにかくも、妙子のところに行ってみましょう」

 そう言うと、すぐに身支度をし、厚子と共に、まず、藤倉家に向かった。

 何かしら、焦りの勢いで、2人は足早になっていた。富子からすれば友人の、そして、厚子からすれば姉の涼子の行方不明という事態に、

 「早く見つけないと、本当に行方不明になるかもしれない」

という焦りが、2人を足早にしていた。

 足早で藤倉家に着いた2人は、まず、やはり厚子の

 「突然、勝手にすみません。私、江口涼子の妹の厚子と言います。数日前から、姉の涼子が自宅に戻っていないんです。ひょっとしたら、こちらでは、と思いまして」

という挨拶から、質問が始まった。

 応対に出た藤倉初江は、困惑しつつ言った。

 「うちには来ていないわね。妙子のいる村田さんのところには行ってみた?」

「いえ、まだです」

 「とりあえず、行ってごらんさい。何か分かるかもしれない」

 「はい、有難うございます」

 「ただ、妙子も身ごもっているから、気を付けてあげてね」

 「分かりました、有難うございます」

 今度は富子が答えた。友人としての妙子への配慮、ということもあるのであろう。

 2人は、村田家に急いだ。村田家に着くと、

 「すみません、いきなりなんですが、村田妙子さん、いらっしゃいますか」

 厚子の声に続いて、富子も、同じく声を上げた。

 「妙ちゃん、ごめん、ちょっと、涼ちゃんのことで、話があるの」

 富子は、半ば興奮しつつ、言った。

 暫くして、物音が聞こえ、妙子の義母の則子が出て来た。

 「あら、妙子さんのお友達の富子さんね。そちらは?」

 「私、江口涼子の妹の厚子と言います」

 則子は、2人のただならぬ表情に困惑しつつ言った。

 「どうしたのかしら?」

 「姉の涼子が数日前から、家に戻らず、行方不明なんです」

 「え?」

 驚きの表情で、則子は反応すると、彼女は、玄関から家の中に向かって声を上げた。

 「妙子さん、妙子さん、ちょっと、いいかしら?」

 「はい、お義母さん、どうされました?」

 「お友達の方が急な用件で、訊ねて来ているのよ」

 「分かりました」

 玄関と家の中との間での声のやり取りの後、妙子その人が出て来た。妊娠している彼女は、身重ではあったものの、腹を抑えて、玄関に出て来た。

 「一体、どうしたの?」

 妙子は、女学校時代の友人等の突然の訪問に、妙子は驚きつつも言った。

 富子は言った。

 「この子、涼ちゃんの妹さんの厚子ちゃんって言うんだけど、彼女によると、涼ちゃん、何日か前から家に戻らず、行方不明なんだって」

 「え?」

 妙子も、突然のことに、驚きの声を上げた。

 「それで、心当たりはないかってことで、私達、訪ねて来たんだけど」

 妙子も困惑しつつ答えた。

 「どんな些細なことでもいいんです、何か、御存じなことはないんでしょうか」

 厚子が、半ば、

 <藁にもすがる>

かのような表情で、聞いた。

 しかし、やはり、妙子にも心当たりはない。身重の身なので、ここしばらくは、外出も控えていた。

 「ごめん、やっぱり、私も分からない」

 「そうですか、失礼しました」

 2人は、期待がかなわないことに落胆しつつ、村田家を後にした。

 期待した回答が得られなかっただけに、帰りの道は厚子は特に、足取りが重くなったようであった。

 「お姉ちゃん、どこ、行ってしまったんだろう」

 「最近、お姉ちゃんに何かあったの?」

 富子の質問に、厚子は嘆息交じりに答えた。

 「いやね、田舎に住んでいるうちの変な親戚のおじさんが、この前、突然、押しかけるように訪ねて来て、お姉ちゃんについて、うちの知り合いの嫁にくれだの、一方的なことを言って、結局、家の中でけんか騒ぎみたいになって姉はひどく怒ったんです」

 「そう」

 富子は嘆息交じりに言った。そこには、

 <大日本帝国>

の体制の下、苦しむ、あるいは辛い思いをする女性への同情と共感がこもっているのかもしれない。当然、富子自身が、

 <女>

なので、よりよく分かるのであろう。富子も、

 「よく分かる」

心中での心情故に、何かしら、足取りが重くなっているようであった。

 「厚子さん、どうするの?家へ帰る?」

 「ええ、とりあえず。今日は、いきなりで、すみません」

 「気を確かにね」

 「はい」

 富子としては、月並みな声をかけてやる以外に、厚子に対してできることはなかった。

 2人は、ある十字路にて別れて、それぞれ、家路についた。


10-3 やはり、まさか・・・・・・


 厚子が帰宅してみると、基次と寛子は、既に帰宅していた。

 「どうだった?」

 基次が、暗い表情で厚子に問うた。厚子は、だまって、首を横に振った。

 「お父さん、お母さんの方は?」

 「同じだった」

 その答えは、表情から半ば、既に分かっていた。

 基次が、居間から、ガラス戸越しに、遠くを眺めつつも、言った。

 「涼子の奴、一体どこに行ってしまったんだ」

 寛子が、やはり暗い表情で言った。

 「まさか」

 基次は、しかし、

 「それについては、言ってくれるな」

という表情で、寛子の方を振り返った。

 しかし、寛子としては、言わずにはいられなかったらしい。

 「まさか、<北>へ・・・・・」

但し、その声は、半ば無力な声でもあった。

 <北>

という台詞については、厚子としても、心中から口に出かかっていた。勿論、それでも、半面では、口にはしたくなかった。

 日本は既に、

 <南北分断>

となり、昭和36年(1961年)の現在、

 <北>

は、単なる方角を示す言葉ではない。

 <大日本帝国>

-<北>こと、日本人民共和国からは、<南>と称されていた。<異国>、<異体制>を指すという意味では<南>もまた、単に方角を指す言葉ではなくなっていた-と敵対する 

<異国>

を指す言葉であることは、最早、言うまでもないことであった。

 涼子が<北>へ越境してしまえば、肉親としていかに心配しても、何もできまい。警察とて、<異国>には手を出せないだろう。基次と寛子は、警察にも家出人として、届出はしたものの、それも無意味である。 

 涼子は、いきなりおしかけて来た基朗による勝手な

 <縁談>

を持ち掛けられたことに怒り、もう1つの人生の可能性として、

 <北>

選んだのかもしれない。

 こんなことになるのであったら、なぜ、最初から、基朗に強く対処しなかったのか。

 基次は、基次がちゃぶ台の傍で座っていた場所を、改めて強く睨みつけた。彼は心中で呟いた。

 「今日、強い態度で、あいつを追い出したように、喧嘩してでも、追い返していれば」

 しかし、涼子が本当に、

 <北>

へ入国してしまっているとすれば、最早、何を言ってもみたところで、文字通り、

 <後の祭り>

 <後悔、先に立たず>

であった。

 基朗に強く対処できず、涼子を引き留めることもできなかったことに、基次は、

 <無力>

そのものというべき自分に、精神的にかきむしられるような思いとなった。

 いつの間にか、外は暗くなり、夜となっていた。夕食はまだであったものの、この有様では、何も喉を通らないであろう。

 まだ、就寝には早い時刻ではあったものの、基次は何も言わず、夫婦の寝室に入って行った。寛子も、夫の心中は理解できるのであろう、何も言わず、基次を見送った。

 何も喉を通らないのは、寛子も厚子も同じであった。

結局、この日、江口家では、夕食はなかった。あるいは、涼子の行方不明の原因を作ったと言える基朗がいたちゃぶ台を囲む気にはなれなかったのかもしれない。

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