第4話 南北国境

南北国境

4-1 家族の声

 「涼子、何してるの?」

 母・寛子の声である。

 「え?」

 突然の声に、涼子は振り返った。

 「どこへ行こうとしているのよ」 

 「北へ、よ」

 「北?まさか、 日本人民共和国?」

 「そうよ」

 「なんで?」

 「この国に未来なんてないじゃない。毎日、毎日、苦しいだけで」

 「だけど、<北>なんかに何のあてがあって行くの?」

 「そんなもの、分からないけど」

 「とにかく、帰ってらっしゃい」

 「帰ったって、何の未来もないじゃない」

 「お父さんも、寛子も、基朗おじさんも、みんな、心配しているのよ」

 「心配?」

 「そうよ、みんな、涼子のことを思って、心配しているのよ」

 「何の心配?」

 「あなたのことについてに決まっているじゃない!」

 必ずしも嫌いではない母とはいえ、怒鳴られた涼子も激高した。

 「あんた達が心配しているのは、私が結婚するとかしないとかでしょ!」

 「そうよ!結婚は、それで幸せの1つじゃない!」

 寛子は、やはり、先日、涼子を基朗からかばったとはいえ、何かしら、母娘の感情の相違というか、押しつけがましいものを涼子に感じさせ、さらに涼子を怒らせた。

 「私に結婚したい相手なんか、いないんですけど」

 涼子は、木で鼻をくったような返答によって、寛子の言葉をはねつけた。

 涼子は寛子と口論しつつ、思い返すものがあった。

 涼子にも、恋心を抱く男性がいなかったわけではなかった。女学校時代、別の学校に通う男子学生と出会い、女学校からの下校途中、一緒に帰宅することもあった。

 そんな時には、2人で自転車を降り、ともに歩き、話しながら歩いたものである。

 <非常時>

という

 <時局>

の下、ほとんど、何らの楽しみもない毎日である。そんな中、異性との会話は、女学生の涼子にとって、新鮮なものがあった。

 しかし、それはある時を境に、終わってしまった。彼は、涼子の下校時、いつも待ち合わせていた場所に現れなくなってしまったのであった。その日以降、約1週間、下校時に、同じ

 <待ち合わせ場所>

に、彼女だけ、ほぼ同じ時間に行き、自転車を降りて、30分から1時間程、彼を待ち続けた。しかし、彼は、それ以降、涼子の前に姿を現すことはなかった。

 涼子は結果として、又、いつもの、謂わば

 <無機質>

な生活へと引き戻された。

 「なぜ、彼は、私の前から消えてしまったんだろう?」

 涼子は、色々と自問自答した。

 「彼は卒業してしまって、もう、ここに来る用事もなくなったのかな?」

 しかし、単に卒業しただけなら、その後も、気が変わってなければ、彼は、引き続き、付き合ってくれていても、おかしくはないではないか。

 「あるいは、他に、彼女がいたわけ?」

 だとしたら、ただ単に、その彼にからかわれ、遊ばれていただけ?言い換えれば、涼子の気持からすれば、ペテンに遭ったようなものであろう。それでも、涼子にとっては、青春の淡い思い出であり、それは誰にも、否定されたくはなかった。

 しかし、誰が、彼との関係を否定するのであろうか。

 彼は、自身の家について、

 「俺の親父は、陸軍の将校なんだ」

と、得意げに語っていたことがあった。涼子は、彼の家まで訊ねたことはないので、本当のところは分からない。

 又、彼は、

 「俺の家系は、宮様に通じているものがあるんだ」

という意味の発言もしていた。これも、今になっては、どこまで本当だったのかは分からない。 

 しかし、とにかくも、彼は涼子の前から、消えてしまった。

 涼子は、傷つきながらも、その理由を心中にて色々、考えていたのであった。

 <彼>

がいなくなってから、数日の間、女学校でも暗い表情をしていたのであろう、当時の同級生であった藤倉妙子が、気にしたのか、話しかけて来たことがあった。

 妙子が言った。

 「軍人で、宮様の家系だったら、親が勝手に結婚相手を決めて、その人と結婚させるために、涼ちゃんと切り離したのかもしれない」

 そうかもしれなかった。そうだとしたら、

 <家>

という、日々の生活において、涼子にとっても例外なく存在している

 <生活の場>

としての概念、あるいは、

 <家制度>

という制度が、当時の涼子にとって、大切な人を奪い、涼子を不当に傷つけたとも言えた。

 涼子は

 <大日本帝国>

という生まれた時から存在している体制の下に、真面目に生き、真面目に勉強もしてきたつもりだった。

 しかし、多感な時期に、既存の体制に大きな疑問を抱くことになったのであった。

 その後、女学校を卒業して、勤労奉仕の現場に出るようにはなった。しかし、それは、自身を傷つけ、それ故に自身に疑問を抱かせた、あるいは、その後も、半ば、抱かせ続けた

 <体制>

のために、奉仕しているようなものであった。

 しかし、彼女個人としては、奪われた 

 <淡い思い出>

を忘れるために、半ば、空腹がありつつも、土木作業に従事することによって、そうした思い出を無理にでも忘れようとしていたのかもしれない。苦しい状況に集中していれば、

 <淡い思い出>

から神経をそらせるからかもしれなかったのかもしれない。

 さらに、そこに、大威張りの基朗おじが、先日、現れたことによって、いよいよ、自身の人生が奪われるかもしれないという

 <人生の岐路>

に、涼子は立たされていた、といえた。

 故に、勤労奉仕の帰路、コンクリート橋の上で、佳代子の呼びかけに応じたのである。

 涼子は、

 <大日本帝国>

を捨てる、月並みな言い方をすれば、その体制に定義された生活を棄て、

 <家出>

したのであった。

 「お母さん、あの基朗おじさんの言うままになって、どうするわけ?なにも良いことないじゃない。だから、お母さんだって、おじさんに上手く、あの場で返事できなかったんじゃない!」

 「それは、そうだけど・・・・・」

 寛子は困惑の表情を浮かべ、返答に窮した。涼子は返答に窮した寛子の姿を見て、自身の

 <正しさ>

を思うと同時に、自身に押し付けをせんとした寛子に対する、何かしら、優越感のようなものを感じた。

 「とにかく、帰ってらっしゃい、話し合いましょう」

 「何を話し合うの!?結果なんか、最初から分かっていることじゃない!」

 「話し合えば、基朗おじさんも、分かってくれるかもしれない」

 「何を分かってくれるわけ?」

母・寛子と口論していた涼子ではあった。そこに、基朗本人が現れた。

「涼子!女のくせに、何を生意気言うか!わしの誇りとメンツを何と心得る。女の美徳をわきまえることもなく、口ばかり、偉そうにしおって、皇国の婦女子としての自覚もないお前は、恥ずかしい限りだ!今すぐ戻れ!」

基朗はまたしても、涼子にビンタをくらわし、腕を無理に引っ張ろうとした。

 「やめて!」

涼子は基朗の男の力に対して非力ながらも、激しく抵抗した。

全身が激しく、揺さぶられる。振り回されて、そのうちに頭がふらつきだした。


「涼ちゃん、涼ちゃん」

 「え?」

 「朝よ」

 涼子は隣席で寝ていた佳代子に起こされた。既に、朝であった。列車は引き続き,走っていた。

「もうすぐ、終着の富山よ」

「着くんだ」

佳代子の声に、目的地に着くことを気づかされた涼子は改めて、下車できるように、自身の鞄を確認した。とはいっても、大した荷物があるわけではない。勤労奉仕の現場から、そのまま家出することになったので、大金を持っているわけでもない。大して、気を付けることもなかった。

ここまでの運賃は、佳代子が払ってくれた。富山以降はどうなるのだろうか。

「富山から、どこへ行くんですか?」

「上越へ」

それだけ言うと、佳代子は、

「ここでは、それ以上、言わないで」

という表情になった。当然、

「これから、南北の国境を越えて、日本人民共和国へ亡命するの」

等と、言えるはずがない。事情を察した涼子は、これ以上は言わなかった。

 昼少し前、だろうか、涼子と佳代子の2人が乗った列車は、富山駅に着き、停車した。

人々が各々、立ち上がり、荷をまとめ、行列になり出した。彼女ら2人も、列の一員となった。2人の乗って来た車両は寝台ではない、2等の座席車であったので、思うように身体が伸ばせなかったこともあり、何となく、全身がけだるい。しかし、列が乗降口に向かって動き出すと、彼女等も歩き出した。そして、車外に出た。

 ホームに出ると、蒸気機関車の蒸気が動輪の間から吹き付け、彼女等2人を含め、降車客の顔を打った。

 蒸気に顔をしかめている涼子に対し、自身も顔をしかめつつ、佳代子は上越行きの乗車券を買うことを涼子に告げた。


4-2 上越

 

 「上越行き、2枚ください」

 佳代子は駅で、切符売り場の職員に言った。

 「あ、はい、ただいま」

 そう言うと、職員は、2枚分の乗車券を差し出し。

 「上越行きの2等切符、○○円になります」

と金額を提示した。

 佳代子は、自身の鞄から、百円札を取り出し、切符と釣銭を受け取った。そして、傍らにいる涼子に1枚を渡した。

 「暫く、次の列車が来るまで、休みましょう」

 佳代子は、駅構内にてベンチに座り、休むように涼子に促した。

 涼子には、1つ、疑問に思わざるを得ないことがあった。

 <北>

との国境線は、


・ 柏崎(新潟県)-いわき(福島県)


を結ぶ形で、日本を南北に分断している。

 東京を出、

 <北>

を目指すというなら、東京から東北本線に乗って、いわきから

 <北>

に入るルートもあり得るではないか、とも思われる。そのように考えると、何かしら、遠回りをしているようにも思われる。

 涼子は、周囲に

 <亡命>

を気づかれないよう、無論、

 <亡命>

を匂わせるような言葉は一切、使わず、

 「なんで、上越なんですか?」

と、佳代子に問うた。

 「親戚がいるのよ」

と佳代子は答えた。

 「つまり、上越方面に親戚がいるので、土地勘があるってことね。だとしたら、私たちの行動もやり易くなるってわけだ」

 涼子も、おじの基朗-口にするのも不快な名前ではあるものの-の家に遊びに行ったことで、ある程度、その時のことを記憶している。もし、涼子が主導して、何かを為すとしたら、やはり、勝手がわかっている方が良いかもしれない。

 「しかし」

と涼子は思った。

 「あのバカおじの基朗のいる場所に行ったとしても、勿論、秘密に行動しなければならない。だのに、そこをバカ基朗に見つかりでもしたら、ただでは済まない。それこそ、自殺行為だわよ」

 基朗が嫌いだからこそ、涼子は、唐突な話とはいえ、佳代子とここまで、

 <亡命>

という家出の旅をしてきたのである。

 ベンチの右隅に座っている2人にその左わきに座っている老婆が話しかけた。

 「あんたら、どこに行きなさるんかな?」

 「え、あ、はい、上越にちょって用事がありまして」

 「上越?」

 「はい、親戚がいますので」

 「あのあたりも大変だ、そのさらに先の柏崎が、<北>との最前線になっているから」

 「そうですか」

 「ところで、あんたら、何の用かね?」

 「親戚から、引っ越しするのを手伝ってほしいと言われているんです」

 「ほう」 

 「ほら、おっしゃるように、<北>との最前線になってしまったんで、西日本の方に引っ越ししたいけど、人手が足りないんで、女だけど、できれば、手伝ってほしいって言われて」

 「そうかい、気をつけてな」

 「はい、有難うございます」

 佳代子の礼を聞くと、老婆は立ち上がり、大きな風呂敷を背負って、席を離れた。この老婆も、どこかへ転居する途中だったのかもしれない。

 数年前、

 <大日本帝国>

は、国土の北半分を奪われ、

 <日本人民共和国>

として、<北>が成立した時、

 <日本人民共和国>

政府による農地改革によって、それまでの土地を奪われた地主たちが、

 <南>

である

 <大日本帝国>

に-今日の佳代子と涼子とは逆の方向になって-亡命してきたことがあり、このことについて、涼子は、以前、佳代子から聞いたことがあった。

 「北陸の方から、<北>の方にいた、地主一家、その地主一家っていうのが、私の一家の大旦那なんだけどね、その大旦那は、

 『わしの一家に、よう来てくれた』

などと、歓迎したのよ。その亡命一族のまかないのためとやらで、私達、小作人への負担はますます、重くなったのよ」

 こうしたことも、佳代子が郷里を見捨てる一因となっていたのであろう。多くはない収入とはいえ、東京という都会での勤労奉仕の場で生活していた方が、金銭面をも含めて、

生活は、ましなものだったのだろう。無論、これは、堅苦しい田舎の慣習から逃れられるという意味でも、郷里よりはマシなものだったのかもしれない。

 傍らにいた佳代子は、疲れが出たのか、ベンチの上で、そのまま、眠っていた。

 「佳代子さんも、色々、大変なことがあったのね」

 涼子は、心中で佳代子にねぎらいの言葉をかけた。

 涼子は、ここ富山まで、旅を共にしつつ、内心、

 「佳代子さんって、ひょっとしたら、<北>のスパイじゃないかしら?」

と疑ったこともあった。

 3年前、日本が南北に分断されて以来、既に、空気であるかのように存在している各種の

 <防諜>

の標語に、

 <北からのスパイに注意せよ>

という新しい語句が加わるようになっていた。これまで、

 <防諜>

の標語は、

 <社会>

を抑止、人々が声を上げられないようにしている体制の象徴的語句であった。そこに、いよいよ、新しい

 <注意事項>

が加わったようなものであった。

 人々は常に、

 <特高>、<憲兵>

を恐れて、本音を口に出さない。さらに、

 <隣組>

の監視網を恐れて、隣人同士でも、本音を言おうとしないとはしないことが多い。

 <スパイ>

を体制の側に密告すれば、体制の側から加点され、配給等が優遇される可能性があった。

 そのために、

 「格子が開ければ顔なじみ」

の隣組は、今や、隣人同士の隙を見た食料奪い合いの組織とも化していた。体制の側からの加点欲しさに、無罪の罪をでっちあげ、

 <顔なじみ>

を警察に売り渡す者さえいる、という噂等も聞くようになっている昨今であった。

 こうした、半ば、息の詰まるような毎日の中で、

 <噂>

は、いわば

 <非公式情報網>

として、新鮮さを持っていた。

 <防諜>

といいう無機質にして、抑圧的な現実に、人々は、新鮮さを求めて、噂に集まった。それ故に、

 <噂>

は人々の間で広まるのである。勤労奉仕の現場で、噂ではないものの、佳代子の身の上話に興味を示した涼子もまた、其の具体例だった。

 しかし、それは公には口にできぬことであった。人々は、

 <本音>

 <建前>

という二重人格ともいうべき生活を送って来た。

 何が

<事実>、あるいは、<真実>

なのか?最早、どこで、何をしているのか?それとも、架空の世界を生きているのか?

 <神州不滅>

を言いながら、半ば、滅びた皇国日本であった。いよいよ、訳の分からぬ状況である。

 駅構内の壁を見れば、ここにも、

 <防諜>

のポスターがあり、例外の土地ではなかった。

 涼子は、傍らの佳代子に目をやった。彼女は相変わらず眠っていた。

 「やはり、佳代子さんはスパイじゃないね」

 涼子は、内心で改めて思った。もし、スパイなら、涼子を厳しく監視し、隙を見せないだろう。

 内心でのつぶやきは、涼子自身を、

 「私は、スパイに誘導されているんじゃない。自分で自分の人生を歩もうとしているんだ。この旅は、自分自身の為の正しい旅なんだ」

と、自身を納得させるための台詞でもあったろう。

 涼子と佳代子は、先日の映画の券にあった

 <追いつ追われつ>

のただ中にいた。そして、

 <旅>

の目的が達せられるまで、油断は全く禁物である。大日本帝国のための

 <防諜>

の標語は、昭和36年の今日、多くの人々にとって、体制に対する標語と化していた。そして、今日、富山駅構内にいる2人にとっては、ことさらに、それが強調されるべき状況にあった。


4-3 国境へ


 駅構内の時計は、午後2時近くになっていた。涼子は、自身の鞄から、上越行きの切符を取り出して、確認してみた。


・ 富山-上越 二等 午後2時40分発


となっていた。そろそろ、準備しないと乗り遅れるだろう。涼子は佳代子の身体をゆすった。

 「あと、40分くらいで出発、起きて」

 「え!?」

 今まで、眠りの世界にいた佳代子は、寝ぼけ眼で目をさました。

 「ああ、そういだったね」

 眠りの世界から、現実の世界に引き戻された佳代子は、ぼんやりとしていたものの、自身の置かれた状況を理解したらしく、

 「あと、何分で出発?」

と、改めて問うて来た。涼子は壁の時計を改めて見た。

 

・ 15時10分


であった。

 「あと、ちょうど、30分」

 「なんか、よく寝た」

 そう言うと、佳代子は、現実の世界にしっかりと戻ったらしく、

 「さ、行きましょう」

と、逆に涼子に呼びかけた。姉御肌の彼女に戻ったのであった。ベンチから立ち上がると、涼子にも立つように促した。

 2人は改札口を通り、ホームに入った。

 ホームに入って、15分から20分程して、やはり、蒸気機関車にけん引された列車が入って来た。機関車のすぐ後ろの2両は、貨車であり、貨客の混合列車であった。2人はホームを歩き、車体に

 

・二等


とある客車に乗り込んだ。この客車には、


・ 富山-柏崎


とあった。

 涼子と佳代子が乗車した後、蒸気機関車が太い汽笛を上げ、車体が揺らぎ、列車は富山駅を出た。南北分断以降、

 <国境の街>

となった上越に向かって、列車は走り出した。

 「なぜ、柏崎に直接向かわず、手前の上越で下車するんだろう」

 これも涼子にとっては、疑問の1つである。但し、

 <南>と<北>

なので、民間人は入れなくなっているのかもしれない。涼子とて、東京での勤労奉仕において、帝都・東京の要塞化に従事していることから、想像できぬことではなかった。

 まだ、戦火の及んでいない東京でも、建物の疎開がなされ、本来は民間人の生活があった、まさに、

 <生活の場>

が、一種の

 <民間人立入禁止区域>

と化している。柏崎は、最前線である以上、街ごと疎開させられ、最前線軍事拠点として、

全くの

 <民間人立入禁止区域>

となっているのかもしれない。

 しかし、これも、列車内で大ぴらに佳代子と話すわけにもいかないことである。ここでも体制に対し、

 <防諜>

せねばならないことに例外ではなかった。列車が富山を出て、1時間程、経過したであろうか、車内に


・ 憲兵


の腕章をした数人のカーキ色の軍服姿が隣の車両から入って来た。文字通り、憲兵であり、人々にとって、最も

 <防諜>

すべき対象としての、体制の具体的存在であった。

 憲兵隊は、人々に切符の提示と、鞄等、中身を確認させることを求めた。

 それぞれの席の乗客の持ち物等を確認しつつ、憲兵隊は、ついに彼女等の席にも来た。

 1人の憲兵が、彼女等に問うた。

 「行先は?」

 「上越です」

 「切符を拝見」

 並んで座っていた涼子と佳代子は、切符を差し出した。

 「うむ」

 正面に座っていた40代前後と思われる夫婦も、自身の切符を差し出した。

 しかし、正面の夫婦は、何か、おびえたような様子である。

 体制側からの抑圧の具体的存在である憲兵の姿を見れば、誰しも、内心、おびえを感じるであろう。周囲から見れば、涼子や佳代子も同じ表情になっていたのかもしれない。もし、事細かに、上越行きの理由等を聞かれれば、その後、どうなっただろうか。

 しかし、憲兵たちは、乗客達の表情等はお構いなしに、というか、最初から、存在していないかのように、さらに、鞄の中身の提示等を求めて来た。

 これについては、涼子と佳代子にとっては、特に、問題はないであろう。急いで、

 <家出>

して来たのである。不審な荷物等はあるわけがなかった。

 「うむ」

 2人の荷物をそれぞれ確認すると、涼子と佳代子に鞄を返した。

 憲兵達は、改めて、正面の中年夫婦にも鞄の中身を提示するように求めた。

 「うむ」

 憲兵は2人の荷物を確認すると、2人に鞄を戻した。夫婦は安堵の表情となった。

 とりあえず、庶民にとっての

 <防諜>

の相手は彼女等の前から去った。

 中年夫婦が、何の荷物を持っていたのかは、涼子や佳代子にとっては、あずかり知らぬところである。 無関係の話でも合った。しかし、

 <大日本帝国>

という体制が、庶民にとっての

 <敵>

になっていることは、皆に共通のことのようである。

 憲兵は、涼子達の背後となっている隣席に移り、同じく、乗車券、所持品の提示を求めた。

 「柏崎?なぜ?」

 不審げに、1人の憲兵がある男性客に問うた。

 「私は政府関係者なんでね」

 そう言うと、その男性客は、手帳と身分証のようなものを提示した。

 「失礼しました。柏崎にて、<北>との最前線にむかわれるのですね。お気をつけて」

 そう言うと、軍靴の踵を鳴らし、敬礼した。

 涼子の想像は当たっていたようである。柏崎には民間人は入れなくなっているのであろう。

 そうこうしているうちに、列車は彼女等2人の目的地の上越に着いた。

 「さ、降りましょう」

 佳代子は、涼子に下車を促した。涼子は佳代子と共に席を立ち、正面の夫婦も立った。席のあちこちから人が立ち、乗降口に向かい始めた。

 ホームに降りると、やはり、蒸気機関車の蒸気が顔を打った。涼子は、蒸気を右手で払い除けつつ、目をしかめながらも、先程の車内に、敬礼を受けた男性が残っているのが見えた。軍の関係者か何かだろうか。

 下車した乗客達は、皆、黙々と、改札口に向かった。涼子も佳代子に促されて、改札口に向かった。

 佳代子が言った。

 「あまり、じろじろ、見なさんな。失礼よ」

 一般的な語句による月並みな注意と言えた。しかし、その真意は、

 「権力の側に、逆に注意されないように注意すべきよ」

というものであったのかもしれない。

 改札口を出た2人は、上越の街の一隅に、ある宿を見つけ、偽名で投宿した。

 部屋に入ると、佳代子は、宿の女中がいなくなったのを確認したうえで、

 「じゃ、これからのことを話すから」

と、涼子に言った。

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