第7話 南北逆転

7-1 <北>の砦

 

 雨は未だに降り続いていた。結構、激しく降り続いている。幌付きトラックに乗せられた涼子と佳代子の2人は、身体に厚手のタオルをかけられた。2人は、身体を寄せ合った。幌付きトラックに乗せられたことによって、雨はしのげるようになったものの、暫くすると、蒸し暑くなったようにも感じた。

互いに身体を寄せ合っており、又、厚手のタオルをかけられたからであろう。身体から逆に汗がにじむようになって来た。佳代子は、トラックに乗せられて、緊張が一定程度、ほどけたからか、左肩の痛みがまたもうずきだしたらしい。顔をしかめた。

先程まで、<脇役>であった涼子は、逆に先程まで<主役>であった佳代子を気遣いつつ、タオルを佳代子にかけた。ある種、<主役>と<脇役>が逆転した。

涼子はタオルを脱ごうかとも思った。しかし、すぐに寒くなるであろうことは予測できた。

又、この走るトラックの中で知っている人間は、佳代子1人しかいない。佳代子の身にタオルをかけると、佳代子と離れる形になり、孤立するようにも思えた。

 見知らぬ男達、しかも銃を持っている者ばかりの中で、それは怖い。だから、涼子は、2人で1枚の厚手タオルに包まれる形のまま、離れなかった。蒸し暑さに少々、不快感を思えつつも、佳代子を見ると、佳代子も涼子から離れない姿勢である。佳代子も心情的には、涼子と同じなのだろうか。

暫くして、走るトラックの中で、涼子はこれまで<主役>であって、姉御肌の佳代子がしんどそうな表情をしているのを初めて見た。<脇役>の自身をここまで、先導して来て、緊張がほどけたことから、今までの裏返しのようになっているのかもしれない。

佳代子の表情は、肩の傷も相まってか、先程までより、何かしら、弱弱しさが目立ったようにも見えた。

 しかし、それでも、何よりも佳代子が傍に居ていてくれるのは、有難かった。

 トラックが走り出してから、彼女等2人は何も話していなかった。周辺の兵達も同じである。何も話さず、声も出していないと、自身が、なんだか、

 <石>

になったように感じられた。

 <石になったように固く>

という表現もある。

実際、かつて、東京でのいつもの勤労奉仕の場では、太陽が照り付けていようと、気温が冷えていようと、ある意味では、

 <石>

になっているしかなかった。勿論、それは、自身の

 <口>

について、である。鍬や工具を使う手足は、止まってはならないのであった。それが止まれば、監督の怒声、場合によっては、体罰という制裁が加えられるのが、日常という

 <現実>

であった。つまり、

 <口>

を自身の意思に反してでも、

 <石>

 にすることによって、手足の身が動く、奇怪な

 <石>

にならなければならなかったわけである。

勤労奉仕は、

<奉仕>

という表現がなされてるとはいえ、それは、自身の力によっては、どうすることもできない、抗えない大日本帝国という

<国家権力>

という巨大な歯車によって、強いられているものであった。その下では、異議を

 <口>

にすることは、それこそ、できないのであった。心中では、<石>ではないものの、

 <社会>

としては、

<表>(会話)

<裏>(心中)

が乖離し、人々は、日々、二重人格を生きているかのようであった。つまり、人々は、自身が心中にて思っているのとは逆の生き方を強いられていたのであった。自身の人格を奪われているともいえた。

 だから、涼子は佳代子と行動を共にし、それまでの祖国を棄てたのであった。

 <国を棄てる>

ということは、これまで受けて来た教育等を通した価値観を棄てること、つまり、それこそ、これまでの人生、人格の放棄とも言えた。

しかし、それ以外、どんな選択肢があったであろう。まかり間違えば、一生、苦しまねばならなかったかもしれない。

トラックは、方角としての

<北>

に向かって走り続けている。佳代子を含め、周囲の人々は、やはり、何も話さない。相変わらず、

 <石>

の状態である。ただ、トラックのエンジン音のみがひたすらに響いていた。そんな中、大日本帝国という

 <南>

の体制の下で、

 <石>

になっていた自身について、涼子は、皆が、

 <石>

になっているこのトラックの中で、先程から、色々、心中で呟いていたのであった。皆が<石>

になっていたことによって、自身の世界に入り込まざるを得ない環境であったとも言える。

しかし、同時にまだ、<南>に残して来た、というより、置き捨てて来たとも言うべき、

家族についての思いがなお、いくらかは残っていたのかもしれない。だからこそ、自身の

行動を正当化しようとして、心中にて、色々、呟いていたのかもしれない。

 改めて、傍らの兵士を見てみると、肩にAK47を担ぎつつ、胡坐をかいて座っている

彼は、涼子を睨んでいるようにも思われた。

 涼子にとっては、彼等は、初めての

 <北>

の人間である。彼等にとっては、涼子、そして佳代子は、初めての

 <南>

の人間なのかもしれない。何か、警戒しているものがあるのであろう。そのために、無言

で威圧しているものがあるのであろう。このような相手には、涼子としても、話しかける

のは半ば、無理であった。 

<南>

から、

 <北>

へと越境しても、同じく、 

 <石>

のままであった。半ば、自身の意思と無関係に動いている状況は、変化がなかった。

 トラックが止った。

 「どうした?」

 荷台に座っていた兵士の1人が、運転席の兵士に声をかけた。

 「いや、何でもない。野生動物が横切ったようなので」

 「そうか」

 トラックは再び、走り出した。

 兵士の1人が言った。

 「いのししやら、動物やらが、国境線を乗り越えて、柵に引っかかるやら、そのせいで、俺達も<南>からの敵じゃないかと、冷や冷やだよな」

 <石>になっているの人間のみであり、人間の都合に過ぎない。人間以外の動物には無関係な話であった。故に、<石>状態が破られた。

 「まあな、それでも、実戦でもないし、いいんじゃないか」

 「よせ、現場での緊張が足りないぞ」

 彼らの上官らしき兵士が、多少、厳しめの口調で言った。兵たちは再び、口を閉ざし、

 <石>

に戻った。

 さらに、10分程、経過しただろうか、再びトラックは止まった。

 「あ、すまない、亡命希望を言う女性2人を連れて来たんだ」

 「了解」

 外から、鉄扉を開くような金属音が聞こえて来た。トラックは再び動き出した。今度は速度は遅い。2、3分程、走った後、トラックは再度、停車した。

 運転席から声が聞こえた。

 「着いたぞ」

 「了解」

 荷台の中の兵士の1人が答えた。その兵士が、涼子と佳代子に告げた。

 「着きましたよ、降りてください」

 彼女等2人は、兵士に先導される形で、荷台を降りた。

 <北>

の軍の施設か何かに着いたらしい。数台のトラックが停められており、兵士等が色々と、動いているのが見えた。

 彼女等2人を下すのを先導した兵士は、

 「こちらへ」

と言って、さらに2人を先導した。周囲には、同じトラックに乗って来た兵士等が囲み、涼子と佳代子は護送される形になった。

 銃を担いだ兵士達に囲まれて歩くと、なんだか、捕虜になったようにも感じる。

 かつて、女学校の学校講堂での集会にて、日本軍に捕虜になった米英軍将兵の東南アジアでの様子を撮ったニュースフィルムを見たことがあった。そのフィルムには、

 「我が皇軍兵士に捕虜となり、うなだれ、護送される米英軍将兵」

という解説者の音声が入っていた。

今、自身によって選択した行動の結果とはいえ、自身が同じ状況に置かれていた。しかし、今更、どうしようもないのである。

夜にもかかわらず、各施設には明かりが点いていた。そのうちの1つの建物の前に着くと、2人は、入室するように促された。


7-2 取調


 「お連れしました、同志少佐」

 部屋に入ると、正面に机と2つに椅子があり、その奥に彼ら兵士の上官であろう、<少佐>の男性将校が座っていた。

 少佐は、椅子から立ち上がり、正面の椅子に座るよう、涼子と佳代子に促した。

 「はい」

 彼女等2人は、一言、言うと、椅子に座った。勿論、それ以外の選択肢はないであろう。

 少佐が改めて、彼女等2人に問うた。

 「お名前は?」

 佳代子が答えた。

 「私は川本佳代子、彼女は江口涼子と言います」

 少佐は、漢字表記を改めて問い、佳代子が改めて説明した。別のデスクに座っている書記らしい兵が、ノートにそれを書き付けた。

 「うむ、亡命申請かね?」

 「はい、<南>の体制に絶望しましたので」

 「うむ」

 彼女等2人が、亡命の為に、<北>、つまり、この

 <日本人民共和国>

を目指してきたことは、<少佐>とて、既に、連絡を受け、先刻承知のことであろう。

 「貴方方2人が、<南>からの亡命希望であることは、部下の兵から、既に無電で連絡を受けていたよ」

 やはり、彼は先刻承知であった。

 少佐は、彼女等2人を連れて来た兵士を一瞥すると、言った。

 「ただね」

 そう一言、前置きすると、少々、厳しい口調になった。

 「亡命申請だとか、あるいは、漁船に乗っていて、漂流しただとか、我が国に来る者の中にはね、場合によっては<南>からのスパイを疑わざるを得ないものもいるんでね」

 少佐は、彼から見て、左の壁を一瞥した。壁には、

 <≪南≫からのスパイに注意せよ!>

 <≪人民共和国≫と≪人民政権≫を≪南≫の帝国主義的侵略活動から護れ>

等の標語が書かれたポスターが貼られていた。

 涼子と佳代子は、現在、地理的にも、

 <南北逆転>

と言い得る立場にいた。しかし、

 <南北逆転>

であっても、ポスターの標語は、ここ

 <北>

であっても、

 <南>

とあまり変わらないようである。異なるのは、

 <皇国日本>、<大日本帝国>

といった国名が、

 <人民共和国>

になっていることくらいであろう。

 少佐は続けた。

 「だので、まず、貴女方について、取調させてもらう。別室に入って、身体検査を受けてもらう」

 少佐はそのように言うと、女性兵士を呼ぶべく、自身のデスク上の電話をかけた。なお、佳代子が左肩に負傷しているのを認め、応急の治療を施すようにも指示した。

 数分した後、3人の女性兵士が現れた。

「今、電話で説明したとおりだ。別室に連れて言った上で、全裸にして、取り調べてもらいたい」

涼子は

「全裸」

という言葉を聞いた途端、卒倒しそうになった。しかし、これが、彼女等の眼前に突き付けられた逃れようのない

<現実>

であった。

 「了解です、同志少佐」

 女性兵士の1人が返答し、涼子と佳代子に告げた。

 「さ、行きましょう。拒否するなら、<南>からのスパイとして、直ちに南に送り返します」

 それだけは、涼子と佳代子のいずれにも、あり得ないことであろう。2人は、3人の女性兵士に従った。涼子は荷物を持とうとしたものの、女性兵士に制止された。

 「荷物は持たないで。ここで男性兵士が調べます」

 そう言って、3人の女性兵士は涼子と佳代子を別室に護送した。

 少佐は、護送された2人が部屋から出るのを見届けると、部下の兵士達に、彼女等2人の所持品を徹底的に調べるように指示した。兵士達は、指示に従い、徹底的に2人の鞄を調べた。

 「特に、これといった不審物はないようですね、同志少佐」

 「本当か?」

 「はい」

 少佐は、椅子から立ち上がり、自身も徹底的に2人の鞄を調べた。しかし、特に不審な物品は見当たらない。

 強いて、目立つものと言えば、佳代子の鞄の中にあった、海水が浸み入った

 <南>

の日本円くらいであろうか。この有様では、<南>においても使用できないであろう。さらに、

 <北>

では、既に、ソ連の主導による様々な改革に合わせて、通貨改革もなされ、独自の新たな

 <人民円>

と称される独自の通貨が発行、流通されていた。佳代子の持っていた紙幣は、この国では使用できないことは無論である。その意味では、殆ど、着の身着のままのようであった。

 「彼女等は何ですかね?やはり、<南>のスパイでしょうかね?」

 兵士の1人が疑義を呈した。

 「よく分からないな、しかし、武器らしきものはないし」

と、少佐は答えた。

 時計は既に0時を回り、日付は変わっていた。

少佐の下へは、昨日-と言っても、感覚的には本日なのである-午後7時過ぎころ、<南>側の国境線警備の砦にて、ただならぬ銃声が響いていたことが、報告として回覧されていた。亡命を阻止しようとした

<南>

の国境警備の軍の発砲の可能性もあったであろう。もし、亡命だとしたら、彼女等2人の存在は、時間的に符合するものがあった。ちなみに、こちらから、昨日付で<南>にスパイを潜入させた等の連絡はなく、<南>による自衛発砲の可能性は低かった。

 そこに、先程の女性兵士の1人が戻って来た。

 「同志少佐、2人を全裸にして調べましたが、不審物は所持していませんでした」

 「ご苦労、同志兵曹、彼女等2人に、改めて、ここに来るように言ってくれ」

 「了解です、同志少佐」

 15分程して、再び、女性兵士に護衛された涼子と佳代子が入室して来た。2人とも新たな衣装、-と言っても、即席なので、作業委姿ではあった-となっていた。佳代子は、左肩の傷口の手当てを受けたのか、左側の肩の部分が多少盛り上がっている。

 「どうぞ」

 少佐は再び、先程の椅子に座るよう、促した。2人は着席した。

 「お疲れでした」

 少佐は2人をねぎらうと、言った。

 「お2人を亡命者として認めます。但し、今まで着てきた衣服、<南>の紙幣、さらに鞄等はすべて、没収となります。スパイ等でなければ、この国で新しい人生を送る以上、<南>と縁のあるものは全て処分しても問題はないはずですね」

 「はい」

 2人は、ほぼ同時に答えた。

 「但し、不審な行動があれば、当然ながら、スパイ容疑がかかります。そのことはお忘れなきよう」

そのように、くぎを刺しつつ、少佐は続けた。

「今後、まあ、1週間くらいですか、迎えの者が来て、取り合えず、秋田県の施設に送られる予定です。そこで、この国についての説明があります」

「有難うございます」

佳代子が礼を言った。涼子も同じく、礼を言った。

 「ただし、明日、再度、<南>での生活状況について、尋問させていただきますので、兵の先導に従って、また、この部屋に来てもらいます。わかりましたね?」

 「はい」

 勿論、涼子と佳代子にはこの返答しかない。それを言うと、再び、男性兵士に護送されて、部屋を出、この軍施設内の宿舎に入れられた。

 部屋は、2段ベッドが4つある部屋であった。普段は<北>の兵士が使用している部屋なのであろう。

 疲れ果てた2人は、ベッドに入ると、すぐ、眠りについた。


7-3 翌日


 翌朝、涼子と佳代子の2人は、扉を叩く音で目を覚ました。眠りの世界から、突然に

 <現実>

の世界へと引き戻されたのであった。

 外は既に、日が昇り、朝になっていた。昨晩の雨はすっかり止み、昨晩の雨が嘘のようであった。

 「はい」

 涼子が扉を開けた。そこには、2人の男性兵士が立っていた。

 「すみません、そろそろ、今日の尋問が始まりますので、支度してください」

 「はい」

 再度、涼子は返答すると、同じく、ノック音で目を覚ました佳代子に呼びかけた。

 「聞いての通りです、さ、支度しましょう」

 「了解」

 佳代子も、外に出る支度をした。支度し終わると、2人は廊下に出、2人の男性兵士と共に、昨日の少佐の部屋に向かった。

 既に朝であり、晴れていることもあって、今日は周囲が良く見える。多くの兵士たちが行き交っていた。彼ら兵士の軍服は、

 <南>

の大日本帝国軍とは勿論、異なっている。焦げ茶色のの軍服であり、階級章も<南>のそれとは異なっている。涼子は、改めて、自分が

 <北>

にいることを思わされた。

 しかし、何よりも、自身が

 <北>

にいることを感じされたのは、やはり、言葉であった。

 昨日、海岸で会った兵士もそうであったように、行き交う兵士の言葉には、

 <北>

の訛りが強い。聞き取れないではないものの、違和感は感じざるを得ない。西日本の出身である佳代子は、さらに強い違和感を感じているのかもしれない。

 昨日と同じく、部屋の前に着くと、護送して来た兵士が言った。

 「同志少佐、おはようございます。江口涼子、川本佳代子の両名をお連れしました」

 「入れ」

 中から、少佐の声がした。兵への命令であった。兵士は、扉を開いた。

 「どうぞ」

 涼子と佳代子は、少佐の部屋に入り、昨日と同じく、用意された椅子に座った。

 早速、少佐が質問して来た。

 「まず、川本さん、貴女はどこのご出身ですか?」

 「岡山県○○郡××です」

 「直近まで、どこで、生活されていましたか?」

 「東京の一隅で、勤労奉仕をしていました」

 少佐は、昨日、目をやった標語とは逆の位置の壁に貼られた日本地図に目をやった。

 南北分断前からあった地図らしく、

 <大日本帝国全図>

という文字は、赤い二重線で消され、加えて、


 ・柏崎-いわき


がやはり、赤い線によって結ばれていた。現在の<北>にあたる東北、北海道に図の脇に

<日本人民共和国>

とあり、西日本の図の脇には

 <南>

とのみ書かれていた。

 「岡山、随分、遠いところから東京に移って来たんだね」

 「はい」

 「なぜ?」

 「実家が嫌でした。男尊女卑だし、それでもって、好きでもない男と結婚させられそうになったし。おまけに小作農家のなので、生活は苦しいし」

 この言葉を、佳代子は、それこそ耳慣れない西日本の訛りで言った。実家や郷里への怒り故に、日々の

 <生活>

言葉である訛りがそのまま出たのかもしれない。

 「それで、東京へ出て来た、と」

 「はい」

 「<南>での勤労奉仕での賃金等はどうでしたか?」

 「スズメの涙でした。生活していくには足りないし」

 これは同時に、涼子の言葉でもあった。但し、涼子は、実家暮らしであっただけ、まだましであったろう。

 少佐は、昨日同様、彼女等の発言をノートにとっている書記の兵士に問うた。

 「同志少尉、ノートはと入れているか?」

 「はい、同志少佐」

 「うむ」

 少佐は、2人に向き直り、尋問を続けた。

 「勤労奉仕の現場では、主にどんな作業をしていましたか?」

 「帝都・東京の要塞化のための土木工事でした」

 <要塞化>

 この言葉を聞くと、少佐は自身もペンを持ちつつ、天井を眺めつつ、

 「要塞化ね」

とつぶやいた。軍将校なので、軍事的なことには関心が強いのかもしれない。

 「具体的には、どんなものを築いていたのですか?」

 「土塁を造ったり、塹壕を掘ったりです。塹壕を掘って出た土で、土塁を盛っていました」

 「工作機械等は、どうでしたか?」

 「いいえ、殆ど、手作業でしたね」

 「わかりました」

 少佐はそう言うと、

 「江口さんでしたね?」

 と今度は、涼子の方を向いた。

 「はい、江口涼子と言います」

 「あなたは、どこの出身ですか?」

 「東京です。東京の地元民でした」

 「昨日、貴女を調べた女性兵士から聞きました。川本さんと同じ現場にいたんでしたね?」

 「はい、おっしゃる通りです」

 「勤労奉仕の作業内容は?」

 「川本さんと同じでした」

 「川本さんと同じく、我が国に来た理由は?」

 「親戚のおじが、自分の好む相手と私を無理に結婚させようとしたんです。親もあまり、かばってくれなかったし、川本さんと同じ理由から、逃げ出したんです」

 「自分の未来がだめになると思った?」

 「はい。食糧難も厳しいですし」

 「東京の住環境はどうですか?」

 「大日本帝国は戦勝国ですから、殆ど、戦火に遭っていません。生活様式もほとんど戦前のままです」

 「戦前のまま?」

 「はい、電気はしょっちゅう電力不足で止まるし、ガスもまともに通りません」

 涼子は、自身の<南>での生活の実態をそのまま語った。少佐が言った。

 「私は、東北の出身だけどね、戦前には、私の郷里でも電気やガスはよく止まったよ。最近の<南>での停電やガス停止等の頻度はどうですか?」

 「本当にしょっちゅうです。だので、マッチが必需品なんです」

 涼子は<南>、すなわち、大日本帝国政府には、これまで不満を口にできないことから、それこそ、ガスのように不満が溜まっていたのを吐き出したかったのだろうか、窮状を正直に語った。

 「本当に、戦前のままだね。何も進歩していない」

 少佐は、言った。

涼子は、少佐の言葉に、改めて衝撃を受けざるを得なかった。

 「何も進歩していない」

という言葉で表現される、歯車の下にあったことは、涼子も、内心、半ば分かっていたことであった。しかし、この言葉は、涼子のこれまでの

 <清く正しく>

あったはずの

 <日常>

における態度が、無駄な人生であるとして、否定することを改めて、告げるものであった。その<現実>故に、衝撃を受けたのだろう。

 少佐が、涼子の改めて受けた衝撃に気づいていたかどうかは分からない。少佐はそのまま続けた。

 「家屋の多くは、所謂古い日本家屋ですか?」

 「はい」

 「私も昔、幼い頃、東京に行ったことがあるけど、家によっては盆栽なんかを飾っていたよね。今でもそんな感じかな?」

 「はい、でも、燃料が不足しているんで、燃料代わりに燃やしてしまった家もあると聞いています」

 涼子の返答を聞いた少佐は言った。

 「戦前よりも悪くなっているんじゃないか」

 涼子は少佐の言葉に改めて衝撃を受けた。自分は、時間が止っているどころか、

 <大東亜戦争・戦勝>

という<正義>に疑問を持つことが許されない体制の下、むしろ、後退している社会に生きていたのであった。否、生かされていたと言えるだろう。

 涼子の正面に座っている<北>の軍少佐は、40代半ばくらいだろうか。涼子よりも20歳くらい年上だろうか。

少佐氏が、東京を訪れた幼い頃とはいつのころだろうか。5歳くらいの時なら、それから、40年前後も経過している。その時よりも、後退しているとしたら、とてつもない

<大後退>

であった。

 <大東亜戦争・戦勝>

は、昭和17年(1942年)以降、1961年の今日まで、20年近くもかけて、40年前よりも

 <大後退>

を造っていたのである。涼子は、何が何だか分からなくなって来た。

 少佐は続けた。

 「お2人には、多分、一週間後に、昨日言った、秋田の施設に移ってもらいます。そこで、一定期間の再教育の後、我が国での生活という流れになります」

 「再教育機関はどのくらいの期間ですか?」

 「それは私のかんかつではないんでね、今は分からない」

 そう言うと、少佐は、傍らの書記の少尉に、ノートにとった内容を資料としてまとめ、上層部に報告することを指示したうえで、

 「これで。尋問は終わりです。1週間後に迎えの者が来るまでに退出準備をしてくように」

と言って、退出と移転の準備をするように言い、2人を部屋から退出させた。

 涼子と佳代子が昨日からの部屋に戻ると、白米の食事が用意してあった。大地主制が続く

 <南>

では、滅多に食べられない食事である。2人は入室の途端に感激した。又、昨日からの疲れもあってか、白米の食事は非常に美味であった。














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