雨を愛す 7




「どうしたの?」


 お弁当箱を洗いながら、ララがわたしに尋ねる。わたしは、ララに出してもらった麦茶を飲んで、ひとりチョコレートクッキーを食べていた。あまりにも穏やかな昼下がりの午後。


「うん?」

「手、とまってるよ」


 ララに指摘された途端に、正面のテレビの中の人物がしゃべりだす。つと、じぶんの手もとに目線を落とすと、あと一口分の食べかけのクッキーがそこにはある。それを口に放り込む。ずっと持っていたのだろう、体温でチョコが溶けて、指は汚れていた。とつぜん、手持ち無沙汰になった指をしばらく眺める。


「わたしがどうおもってもララは、どうでもいい」

「は?」

「でしょ」


 わたしの目はビー玉だ。感情を映さないただの丸い玉。でもララは違うの。その雨を集めたような目には色んなものが詰め込まれていて。くるくると変わるの。たとえば今朝みた夢や、思惑、ララは毎日酷く悪い夢を見ていて、その夢の中にわたしを巻き込もうとしているのだとおもう。


「ひなんしていないよ。わたしはララがすき。」

「しってるよ」


 わたしのお弁当箱を洗ってくれたララは、蛇口をしめて濡れた手を拭くと、わたしの隣に座った。今は一緒にチョコレートクッキーを食べている。


「ねえララ?」

「なに?」

「わたしとケッコンしてくれる?」

「できないよ」

「どうして?」


 尋ねるときみは、チョコだらけになった冷たい指でわたしの裾をめくる。あらわになったわたしのしろい腕には色んな長さの傷跡がたくさんあって。ララはその傷跡の上に、自分のチョコで汚れた指を擦ってわたしをよごす。


「傷だらけだもの」


 みにくい。

 みにくいね。


 わたしの腕は、古いものから新しいものまで傷でいっぱい。ララの指紋のついたチョコレートは褪せた血の色みたい。うでだけじゃない、わたしの心のなかも、からだのなかも。見えないけれど、古いものから新しいものまで傷で満たされているよ。



 ブラウン管のなかは賑やかだけれど、リビングは妙に静かな空気で張り詰めている。窓の外から、しらない親子の声が聞こえてくるくらい。


「じゃあ、ララはだれとケッコンするの?」

「しないよ僕は」


 ララは笑って、クッキーをかじる。ナイフみたいな目だ。目尻が鋭くて、触れると冷たそうで。なにより、まわりのけしきに馴染まないの。きみの目だけが、不穏なするどさを持っていて。なにかをずっと、探している。


「きみを傷つけたから」


 たとえば、じぶんと似ているものを。


「うん?」


 ねえララ?

 そのナイフできみはいったいなにをするの?


「キキはさ、考えなかった?だれがあの人に伝えたんだろうって」


 ララの目はいつもよりしずかだった。いまは水溜りみたいに。そのなかに、お人形みたいな女のコが映っている。まぎれもない、わたし。


 ふと、脳裏に蘇る光景がある。


 お友だちだったものたちが、おりこうさんに集まる教室。むすうの生きものを一つに操るひとりの人間。わたしはどこに属している?ララの瞳は不穏だから浮いている。わたしは?わたしはどうして。



 目の前の景色がぼやける。頭がまわる。もうやあめた。かんがえることなんて。するとぼやけていた視界に焦点が合いはじめる。まぼろしかと思ったけれど、ちがうみたい。ララがいつのまにか取り出したペティナイフを回して、遊んでいる。それを見ながら、わたしは口をひらく。


「あのひと?」


「センセーだよ」


 子どもがコソコソ話をするように、わたしたちは息を潜めて話をした。ララの家には、わたしたち以外だれもいないのに。


「ぼくが告げたの」


(ねえララ。認識さえしなければないのと一緒なのよ。なのにどうして。)


 わたしは口をとざす。


 ブラウン管のなかの人たちが、やかましくさわぎたてている。


「きみが現実に気づいたらどうなるんだろうって思ったんだよ」


 指先がかじかむ。きゅうに息が苦しくなって、体が震えた。ララはすこし笑っている。なにを考えているのか分からない顔で。


「きみをこわしてしまった」

「…」

「だからぼくはだれとも、結婚はしない」


 毒をくらわば皿まで。

 一度手をつけたのなら、さいごまで。


「ぼくはねララ。きみを殺しちゃおうか、それともなんにも手を出さないでいようか、ずっと迷ってるんだよ。それとどうじに」

「どうじに?」


 無表情で手に持ったペティナイフの刃先をゆっくりとわたしの肌に埋め込むララは、口ごもった。


「じぶんを殺しちゃおうかこのまま生きのびてしまおうか、迷っているの」

「なにをいっているのか、わからないよ」

「そう?」


 すうっと、わたしのうでにきれいに線をひいたララは、わたしの肌から刃先を離す。その刃先は迷っている。もう一度傷をなぞるか、鞘の中へ帰るかを。


「しょせんキキだもんね」


 調子を取り戻したように吐き捨てたララは、刃先をもう一度わたしの傷口に埋め込んだ。すこし痛くて、わたしは顔をしかめた。


「ララ…」

「なあに」

「好きだよ」

「しっているよ」

「傘にらくがきして、ごめんなさい」


 ララの動きが止まった。


 顔をあげると、さきほどの背筋がこおるような無表情は解けていて、ララの黒くて艶やかな目が見開かれていた。ほどなくして心からいつくしむように、ララが笑った。みまちがいかと思うほどやさしい光を宿して。一方、きもちわるい、と感じて目を落とすと、テーブルいっぱいに血が広がるのがみえた。血のにおいって、濃いんだね。わたしは笑った。ひさしぶりに、わらった気がした。


「ねえララ、つぎは結婚してくれる?」

「うん」

「つぎは傷つけないでね」

「もちろんだよ」


 …ごめんね。ララはそう言った。わたしが生きているときにきいた、最後の言葉だった。ねえララ、ララ、大好きよ。




 たまに思うの。わたしたちは、本当に大切なものを知らないで生きているんじゃないかって。そう考えるときわたしはなんにも手につかなくなって、とても恐ろしい感情に支配される。それは体の底が、すとんと音を立てて抜けるような恐怖。ねえ、だれか。本当に大切なものはどこにある?


 でも、もういいの。わたしの“ひっこし”をてつだってくれたきみ、わたしは死んだあとだって、ずっときみに恋をしている。きみのひっこしを手伝ってあげられなかったことが、わたしの唯一の心残りよ。ごめんねララ、何度だって言うよ。大好きだって。つぎ生まれ変わってきみに出会えたら、あいしてるとか言ってみたいな。


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