雨を愛す
われもこう
雨を愛す
雨を愛す 1
たまに思うの。わたしたちは、本当に大切なものを知らないで生きているんじゃないかって。そう考えるときわたしはなんにも手につかなくなって、とても恐ろしい感情に支配される。それは体の底がすとん、と音を立てて抜けるような恐怖。下腹のあたりがすうすうするような。
コンロの使い方も、赤い靴の履きかたも、あいさつの仕方も、すべて分かったつもりで生きているけれど、一番大事なものだけを見逃している。目が見えていることを信じて疑わない盲目の子どものわたしたち。きっと神様はそんなわたしたちをみおろしながらわらってらっしゃるのだろう。
わたしの二つの目では見ることの叶わない、かけがえのないものたちは、いったいどうやったら再び出会うことができるのだろう?
⭐︎
電子レンジの使い方がわからない。わたしは氷のように冷たくなったクリーム色のマグカップを両手に持ちながら立ち尽くしている。なかに入った飴色の紅茶は夏に飲むのが相応しい。わたしはアイスティーをホットティーに変換したいだけなのに、もうこうしたまま30分も同じばしょに同じしせいでいる。
「キキ、またわからないの?」
ふと声がして振り向くと、わたしの左手にあるシンクの窓から顔だけを覗かせたララがいた。うん、分からないの。わたしは言葉みじかく簡素に答えた。
「だから教えて?」
「教えて、じゃなくて、やって?の間違いでしょ?覚える気がないんだもん」
窓から身を乗り出して、わたしの家の中に入り込んできたララは、シンクに降り立つと涼やかしく悪態をつき、窓を閉めた。
「それと、窓は閉めること。風邪ひいちゃうよ?」
冬の気配をまとったララがわたしの隣に立つ。ふわりと雪の匂いがした。ララの赤く染まった鼻の頭に見惚れていると、いつの間にか手の中のマグカップは奪われていて。次に我に返ったときには、電子レンジがチン、と音を立てていた。
「ほんとキキはぼーっとしているよねえ」
揶揄う口調でララがわたしにマグカップを差し出す。わたしはララから受け取ったマグカップを両手に持つ。ーーあたたかくなっている。紅茶の面から沸き立つ湯気を見つめる。
「ぼうっとしてないよ。」
たまに思うの。わたしたちは、本当に大切なものを知らないで生きているんじゃないかって。だからね、ぼうっとしてないよ。その大切なものを、探しているだけ。
わたしが真剣に否定すると、ララは目を細めたまま笑った。それは好ましい感情ではない。なぜなら、ララはわたしをときどき嘲笑うからだ。
「うん、知っているよ。キキのことはなんでもしってる」
でもね。わたしの手首と手の境目にできた真新しい傷跡を一瞥して、その好ましくないものを含ませたまま、ララはわたしの手の中のマグカップを奪うと、あっと言う間も無く、口をつけて飲んでしまった。
「だからいつまでたっても電子レンジの使いかたがわからないんだよ?おまぬけさん」
空になったマグカップを銀色のシンクに置いたララは、こちらを振り返ると片頬だけで笑った。そうして彼はシンクの窓から出ていった。キッチンには、わたしだけが取り残される。先ほどと寸分違わない空気。一人の現実。ただそれだけがそこにあった。
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