雨を愛す 3
意味をうしなう、という「意味」を初めて知ったのは、ちょうどお友だちだったものたちが、わたしの手から離れていって悪意を持つようになったとき。
悪意というものを知ったのは、かつてお友だちだったものたちが、なにかちがう生き物にかわってしまったとき。
「キキはヤサシイもんねえ」
「キキはカワイーもんねえ」
風邪になったひとが他の人に移してはそれが広がってゆくように、悪意が伝播してやがてはひとつになる。
叩かれると小さな悲鳴をあげた。ヤメテといってもヤメテくれないから、わたしは意思を示す意味をうしなった。
がっこうに行っても、おしゃべりするひとがいない。わたしはその場所において、そんざいする意味をうしなった。
悪意はいろんなものを産んだ。片方だけのクツ、やぶられたノート、ペンのない筆箱、みにくい笑顔、きたない声、つよい人、よわい人。ひとつのタネからいろんな花が咲くように。ひとりの神さまからたくさんの人間が生まれるように。
それでも平気でいられたのは、みんなのいうとおり、わたしが「おまぬけさん」だったからだろうか。手がふるえる、足がふるえる、いきぐるしいよ。みんなのいる場所に行くとおかしくなるの。ただの違和感でしかなかったものが、決定的なものに変わったのは、ある日先生の言った一言だった。
「このクラスにいじめがあります」
残酷な一言だった。その後の記憶が消し飛ぶくらい。ホームルームのあとから、わたしの日々は空中で薄い白布の上を歩いているようなものになった。すべての出来事はわたしのはるか足元で行われていて、わたしにはなにも届かない。無関係で、ゆめとおなじようなもの。踏み出した一歩先に地面はない。なにかがこわれてゆく感覚だけが、とおいところで微かに感じられた。
いじめは収束こそしないものの、先生の鶴の一声で少しばかりはマシになった。あとはささやかな嫌がらせが治りかけの風邪の咳のようにずっと続いている。
ララとであったのは春の終わりかけ、春雨が桜の花を洗うように落としていった日、わたしが収まり始めたいやがらせと平凡な日常の狭間でひどくぼんやりとしていた頃。
変化する。いろ、かたち、おと。
眺めている。意味もなく。
「傘がないの?」
雨が降っていた。校舎にはもう子どもはいない。どれだけ探しても傘立ての中にわたしの水色の傘はなくて、わたしは軒先から滴り落ちる無数の雨を眺めていた。雨音に混じって静かな男の子の声が聞こえた。
「うん」
わたしは見上げていた顔をその子のもとへ向けた。しらない男の子がいた。水辺に咲く花のような端正な立ち姿。なのに、不穏な気配を漂わせるその子は、少しばかり笑んでいた。
決して押しが強いわけではなかったけれど、傘、いる?と近づいてきたララをわたしは拒絶することができなかった。気づいたらわたしの手にはララの黒い傘があった。
ただの黒い傘は、そのときなんだか不気味な銃鉄に見えた。
前触れだとおもった。
不吉なものがやってくる、前触れだと。
「女の子が雨の中を傘もささずにゆくのは可哀想だもんね?」
ちっとも可哀想と思っていなさそうな調子で、それどころか少し揶揄するようにその子は言った。ララはわたしより少しだけ背が高くて。至近距離で細められた黒い目は雨を閉じ込めたみたいに艶やかで綺麗だったから、わたしは返事もせずにそれを見つめていた。変化する。いろ、かたち、おと。これも?
ぼくの名前が書いてあるから取られることはないでしょ?。ララは教科書に載っている文章を読み上げるように言った。わたしはどう反応したんだろう。その後のことは覚えていなくて。きっと、反応のないわたしに愛想をつかして、ララはその場を去ったのだろう。
こんなもの。空に向かってぽつりと呟く。今度こそ誰もいなくなった軒先で。わたしは傘立てにララの傘を入れる。わたしに使われるのはもったいないと思った。雨の中を歩き出す。わたしはじぶんの赤い長靴の先に目を落としながらお家へもどる。
それからララはときどきわたしの前に現れた。教科書をいれているカバンのヒモが切られたとか、クツが片方ないとか、そういう、途方にくれているとき。そういうとき、わたしはふと、ニンゲンの住むこの世から、ちがう世界へ引っ越してみたいと、ぼうっとする。その、ぼうっとしてるときに、ララは現れる。
わたしにとってきみは、わたしが夢見ていた、ひっこしを手伝ってくれる人、だったのかもしれない。
「なにをかんがえてるの?」
夕暮れの教室は真っ赤だった。入り口からドアの開く音がしたので、ララが来たことは知っていた。わたしはイスに座ったまま、いろいろと悪口の書かれた自分の机を眺めて、ひとつひとつ、小さな声で読み上げていた。
「きもい」
「しね」
「ばか」
「コロス」
「くさい」
「できそこない」
ララは隣のつくえから椅子を引っ張ってくるとわたしの隣に座っていっしょに読み上げてくれた。
そのときふと、この子は男の子なんだな、と思った。天啓のようなひらめき。わたしとハモるララの声は、私より少し低くて艶がある。夕暮れの中、ぜんぶ読み上げたあとに、顔をあげると、夜空に浮かぶ月のように、ただララの顔がそこにあった。黒い髪の毛が白い頬に垂れている。雨を集めたような瞳が、冷たさを宿してわたしを見る。薄くて赤い口だけが、ゆるやかに弧を描いている。ララはずっと、この顔をしている。
時間が止まったような気がした。
「これ、どうしたいの?」
「どうしたい?」
「消しゴムは?」
「…」
ララがわたしを見やる。
わたしはもう、じぶんがなにを持っていて、なにを奪われていて、なにをもっていなかが分からない。把握していない。
「消して欲しい?」
「うん。」
ララの筆箱の中に消しゴムは一つしかなかった。四つの角がすべて削れた、まあるくて、鉛筆の芯で汚れてしまった不恰好な消しゴム。ララが静かに、つくえの面の文字を消していく。ゴムと木の擦れる音が教室のなかに響く。ララの白い袖が黒く汚れてしまった。カタン、と音がした。わたしが手に持っていた油性ペンを床に落とした音だった。
ララが机いっぱいに書きしめられていた文字をぜんぶきれいに消してくれたとき、ひとつの言葉が茶色い机の中央に浮かび上がった。それは何度擦っても消しゴムでは消えなくて。油性ペンで書かれたものだった。
「”子どものすることですから”」
さっき二人でこの机に存在する全ての言葉を読み上げたとき。いちばん濃く太く書かれた12文字に、まっさきに気づいていながら。ララはこれを読み上げなかった。いまさら口にするララの目は笑っている。わたしを侮蔑するように。いいや、しっているよ。きみはずっと、わたしのよわさを軽蔑しているね。
「ララは」
「ララは?」
「ヤサイシイね」
夕闇におかされていく教室のなかで、ララは笑った。深い森の中にある泉の水面に、すうっと月光が差すように。
わたしがなにかが壊れていくのをただ見守るようになったのは、ララがこうしてわたしと一緒にそのなにかを壊してくれるようになってから。
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