第10話 腐れ縁
どこからともなく、食事の時間には馴染みのない香りが漂ってきた。
それは、青菜が虫に食われるときの匂いだ。微かな石鹸や洗剤のような、一風変わった香りだ。その香りは、フライパンがぐつぐつと音を立てる中から広がってきた。
「お待だせした。食ってみれ。
東京に来てから、こんなに懐かしい秋田弁を聞くのは久しぶりだ。ここでは遠慮せずに、訛りの強い方言を使っても大丈夫らしい。しかし、どんぶりのフタを開けて広がる香りは初めてのものだ。
出された料理にはセリに似た葉っぱがたっぷりと使われ、溶き卵で見え隠れしている。おっかなびっくり、箸を進めてみる。
「がっこも良いけど、どうだ、これも
男性とお嬢さんも一緒に親子丼を口に運んでいる。
「お客さんがいねぁ時しか、こんた美味ぇの食えねぁがらなあー」
けれど、見た目や香り以上に美味しかった。
「ご主人、これ何使ってんの?」
主人は立て板に水のように話し始めた。
「この青ぇのはここにいる彼女の故郷の国、ベトナムのパクチーや。結構、香菜の親子丼いげるやろ !」
私の顔を少しだけ覗き込みながら、彼は心配そうに言葉を続けてきた。彼女は日本人ではなく、遥か遠く南国から来た人だった。しかし……主人にはもったいないくらい日本語が上手であり、瞳が澄んだ上品な美人だ。
「匂いが少しだげきづぇがら、好ぎ嫌い別れるげどな」
お嬢さんに顔を向けて呟き、彼はニコリと笑っていた。
「んだども、親子丼は夫婦みだいなものだ。ふわふわのタマゴさピリッど締める薬味必要なんや。どっちが主人なのが、おいには分がらねぇが。なあー、母ちゃん。俺たちみたいな腐れ縁やがな」
母ちゃんって娘さんではなかったんだ。分かってはいたけど、まさかの驚き桃の木山椒の木。ひとまわり近く年齢が離れて見えていた。まさに親子丼そのものだ。
熱々のご飯の上に味付けした鶏肉と卵が乗っている。どんぶりに入ったのはどっちが先だっただろうか。しかも腐れ縁だって……奥さん、叱ってあげてください、主人のこと。
でも、どんぶり屋にはとても爽やかで温かい空気が流れていた。彼は自分の笑顔を見ながら話しを続けてくる。
「うぢにはもうひとづメニューがある。ねぎ替えや」
玉ねぎを一切使わずに全て長ねぎにしたものだという。しかもシャキシャキしていて美味しかったので、何気なく答えてみる。
「白髪ねぎのでしょう」
「んだども、母っちゃは取り替えるごどの出来ねぁメニューやさがい。こごまで連れ添ったら、もう、諦めるしかねぇ」
私の方を向きながら、男性は一言だけ言葉にしてきた。
「またあ、そんな可笑しなことばかり言っていると、彼女に笑われますよ」
何とも、奥ゆかしい女性である。一見、彼女は主人の失礼な言葉にこれっぽっちも怒るような素振りを見せていない。
むしろ平然とにこやかに笑っているかもしれない。ふたりの関係には何でも言い合える仲の良さが感じられてきた。まるでさっきの味わい深いパクチーみたいに。
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