第7話 親子丼


 ああ……良かった。


 もう少し遅かったら、入れなかったかもしれない。ほっと安堵のため息をつきながら、メニューを見るのも忘れてしまう。


 女性一人で初めての店に入るのは少し緊張した。


「何になさいますか?」


 目の前にお冷のグラスが静かに差し出される。初めてなのでメニューが詳しく分からない。隣をこっそり見ると、どんぶりのご飯に乗った卵とじを食べている。卵かけご飯、それとも、かつ丼、他人丼かしら……。とにかく卵料理は大好きで、思わず生唾を飲み込んだ。


「ごゆっくりどうぞ、メニューは壁に掲げられていますから」


 やさしく言われ、ドキドキしながら店内を見渡す。案内のとおり、どんぶりから湯気が上がりそうな写真が壁面に貼られている。


 メニューは「比内地鶏丼」のみ、どれも500円。


 税込みと聞いて、すごく得した気分となっていた。卵かけご飯ではなく、親子丼の店だ。ワンコインでふんわりとした卵が美味しそうだ。新しい発見にワクワクしてしまう。さらに、故郷の鶏肉を使っているなんて、贅沢で懐かしさすら感じる。


 けれど、「どれも」とはどういう意味だろうか。恥ずかしげに、私は調理場を眺めてみた。


 ガス台には同時に五つの小さなフライパンが並んでおり、湯気が上がり、卵の良い香りが漂ってくる。時間が経つと白衣姿で短髪の一人の職人がフライパンを少しだけ持ち上げ、大きく円を描くように溶き卵を加えていく。

 鶏肉に火が通るとご飯に出来上がった具を乗せて、最後に海苔をパラパラと乗せて少しばかり蒸らすように蓋を閉めていく。手際の良い早業だ。


 注文を受けてひとつずつ作り、出来立てを提供してくれるのだろうか……。そんな些細なことにさえ魅力を感じてしまう。狭い厨房だけど、目の前に広がる面白い世界に魅了されていた。



 とても良い香りがする。


 ほんわかする卵と出汁の良い香りが混ざり合って食欲をそそってくる。この香りを嗅ぐと亡き母親の姿が目に浮かぶ。故郷の景色を思い出しながら、一生懸命フライパンを操る料理人の姿に見惚れてしまう。


「なんか……すごく美味しそう」


 思わずひとり言を漏らしていた。でも、その言葉は後から入ってくるスーツ姿の男性たちの声にかき消され、ほっと安堵した。


「俺は載せ海苔」「俺は三つ葉」「がっこや」「全ネギ」


 がっこは大根のいぶり漬けのことだった。少しすると客足が一旦落ち着いたのか、職人が渋い語り口で尋ねてくれる。


「おめ、初めてか? なら、パラパラ海苔がお勧めや」


「へえ、そうなんだ」


 心にそっと染み入るような男性の横顔に答えていた。一見ぶっきらぼうだけど、優しさが緩む口元から垣間見えてくる。


「混ぜはやざねや、風味変わってしまうからな」


 届いてくる言葉のやざねは、懐かしい故郷の方言でダメという意味だ。色々なものを混ぜると美味しくないそうだ。熱心に聞き入っていたので、ひとつひとつ優しくこだわりの親子丼の作り方まで教えてくれた。


 まずは鶏肉の選択。赤身でありながら歯ごたえがあり、細やかな脂肪の旨味がよく伝わる鶏肉こそ命だという。次に大切なのは卵であり、与える飼料によりコクが変わり、ふんわり感も違うらしい。聞けば聞くほど、庶民的な料理の親子丼でも奥が深く感じられてきた。


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