一-③
夜の森は空との間が曖昧になるほど黒々と広がっていた。
「片岸さん。思うんですが、廃校舎のときもそうでしたけど、私たちって踏み込まなくていいところまで踏み込んで、遭わなくてもいい危険な目に遭ってませんか」
木の根が隆起した道に足を取られまいと、慎重に進む宮木が情けない声を出す。
「何言ってんだ、税金で飯食ってんだからこれくらいやれ」
「はいはい、民間で誰もやりたがらない仕事をやるのも公務員の特権ですもんね」
宮木の
「こういうの、ホラー小説とかだと村ぐるみで何かを隠してて、何も知らない
「生贄も何も……そもそも唐原以外の村の人間はそれほど重く
「そこですよ。信じられません」
「普通に生きてるつもりでも知らないうちに何かに内臓を食い荒らされてるかもしれないんですよ。犠牲者は理由も法則性もわからないって言いますし。普通は嫌じゃないんですかね」
「生きてる間何ともなけりゃ気にしねえって奴は多いんじゃないか」
「本当に生きてる間は何事もないんですかね」
獣に引き裂かれたような唐原の腹部の傷跡を思い出す。俺は何とも言えず、別の話題を探した。
「生贄って言えば」
「嫌な前振りですね」
風でそよいだ木々の葉が食い破られたように割れ、
「ひと喰った神に身を
「どうなんでしょう。来る前に調べたんですが、記録が何もないんですよね。なぜひと喰い神じゃないのかって話に都合よく後付けしたねつ造かも……」
木々の間から見える坂道の斜面は少し上ったところが開けていて、山頂に近づいていたのだとわかった。
そのまま踏み出そうとしたが、宮木が俺の肩を
「お願いします。どうか、どうか……」
俺は
塊は人間だ。全身を折り曲げて、地面に手をつき、土下座をして何かを陳述するようにうずくまった人間だった。
闇の中で縮れた白髪がそよぎ、老人だとわかる。暗さに慣れてきた目に
「あの女を殺してください……」
俺は息を
「あれは悪い女です。息子は
押し殺した老婆の声に混じる憎悪が夜闇に溶け出して、闇を一層濃くする。月光が折れ曲がった老婆の背の輪郭をなぞる。
そのとき、老婆の前に
宮木を呼ぼうとした瞬間、それは俺の目の前にいた。目も鼻も耳も、口もない獣だ。毛羽立ったラクダ色の毛の中央が割れて、蛙のように膨らんだ腹が透けている。赤いゴムホースのような腸と風船じみた臓器がしきりに脈動していた。そいつから目が離せず、指一本も動かない。思考だけが俺の脳内を駆け巡った。
村の連中も薄々気づいている奴はいるはずだ。理由も法則性もないはずの犠牲者は皆、〝ひと
ペンライトを握る俺の右手に何かが触れる。枝や葉にしては柔らかい感触だった。
視線を右側に少しだけズラす。垂れ下がっていたのは黒い枯葉ではない。乾燥した海藻のように濡れて固まった黒い毛髪の束だ。女が立っていた。
髪に隠れて顔と上半身は見えないが、その下の
やめろと言いたかったが、声が出ない。黒髪の幕がこじ開けられるように広がっていく。その下に現れた女の腹の中央は血で幾重にも曲線を描いた跡がある。唐原の祖母のメモと同じ図面だ。
女が下帯を解き、着物の合わせをくつろげた。その中にあるのは空洞だ。古い大木の
口もないはずの獣が笑ったのがなぜかわかった。
女も俺を見ている。髪の中から強いるような視線を感じた。
真相に辿り着いたなら、お前は捧げないのか、と。本人が願掛けをした訳でもない唐原にまで影響が及んでいるのは、おそらく神が暴走し始めた証拠だ。そして、この神を止める方法はひとつだ。誰かがまた巫女のように身を捧げて、ひと喰いを止めさせるしかないのだ。
「俺はまだ……」
ざっ、と斜面を滑るような音がした。
「す、すみません。足が滑っちゃって……」
視線を戻すと、獣と巫女は消えている。代わりに木々の向こうで音を聞きつけた老婆がこちらを見ていた。
「よし、逃げるぞ」
俺は宮木の手を摑んで、凹凸の激しい坂道を転げるように駆け下りた。
視線を感じる。獣か巫女か老婆のものかはわからない。
息を切らして山の
俺は汗ばんだ手を腹になすりつけた。
正午を迎えた村は後ろ暗いところなど何も感じさせない
「直ちに問題はなし、ですか」
「詳しいことは記録に残らないよう口頭で伝える。信用できる奴だけにな。まあ、あとはいつも通り上の奴が何とかするだろう」
俺の上司は俺の知らない
文字通り、神をも恐れぬ行為だと思うが、こんな
「そろそろ出るけど、もう
「食べる気になりませんよ……」
「つぶあんじゃないからか」
宮木が
駅舎の向こうにせいぜい三、四階建ての小さなホテルが見えた。刑務所に似た茶色の壁からタクシーが一台吐き出され、白いシャツにベスト姿のホテルマンに見送られながら遠ざかっていく。尾を引く排ガスを見つめて立ち尽くす男に見覚えがあった。髪を分けてごく自然な微笑みを浮かべていたが、目の下のクマと
唐原が一瞬俺の方を向いた。接客業の人間らしく上げていた口角がふと下がり、何もかも
「生きてる間に何にもなきゃいい、か……」
俺は窓を開けて車外に煙を流す。唐原に見送られた客は、あの腹の中に隠された
「俺たちだってそうやって騙し騙し生きてるしな。その場限りで
「聞きたいですか?」
俺は首を横に振る。
「私も片岸さんがその歳でバツイチって噂、確かめようと思ってないですよ」
宮木の笑みを含んだ声が耳に痛い。俺はフロントガラスの向こう、駅前の鯛焼き屋で店番をしている女を見た。煙草を携帯灰皿に
相変わらず笑っていても不幸そうな泣き
「実際そんなようなもんだ」
俺は窓を閉めてからシートベルトを確かめ、アクセルを踏んだ。
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