【書籍版試し読み】領怪神犯／木古おうみ【カクヨムコン７ホラー大賞作】

一－②

「うちの祖母さんは、本当にろくでもない女だったよ……」

　独り言のような唐原の声はほとんど重い磨（す）りガラスの引き戸を開ける音にかき消された。俺と宮木は聞かなかったふりをした。

　塗装が剝（は）げた玉すだれを撥（は）ね上げて家の中に入る。底冷えする廊下は、丸めたカレンダー、段ボール、折りたたみ式の椅子や台車の骨組みなどが所狭しと散乱していた。

「祖母さんが死んでからも、片付けて売るのが面倒で、仕事が休みのときはここに来て虫が湧かないか見てるんだ。ほとんど手をつけてないから散らかってるけどな……」

　まだ夕暮れ前だというのにひどく暗い家の中を、物を避けながら進む。積み上げられたゴミの山は闇の中に溶け込んで輪郭を失い、人間の居住地を丸（まる）吞（の）みした魔物の食道を歩いているような気分になる。

「聞いただろ。俺の祖母さんが最初の犠牲者だって」

　唐原は俺たちを台所の椅子に座らせ、グラスに麦茶を注いだ。白地に赤い花模様のヤカンはおそらく彼の祖母が使っていたのだろう。死んだ祖母の家の匂いがすっかり染みついた唐原は、まだ若いのに疲れ果てた老人のような雰囲気がある。彼の肩越しに居間の介護用ベッドが見えた。

「犠牲者なんて言い方、虫がよすぎる。半分は祖母さんの自業自得みたいなもんだ」

「それでは、もう半分は？」

　宮木が麦茶を啜（すす）って平然と聞く。唐原は俺たちに背を向け、無言で居間へ向かった。

「私、怒らせちゃいましたかね」

「今更だろ」

「ああいうタイプは少し怒ってるくらいじゃないと話が引き出せないんですよ」

　戻ってきた唐原は贈答用の和菓子か何かの古い箱を手にしていた。

「これが祖母さんの遺品の日記だ」

　彼は箱から取り出した手帳の最初のページを捲（めく）った。二ページ目からを俺たちに向ける。黄ばんだ紙の中央に大きな楕（だ）円（えん）が描かれ、その中に脳みそや腸のような線が幾重にも重ねられていた。俺は紙をめくった。どこにも同じような図が描いてある。たまに楕円の上の方に両側から突き出した線のようなものがあるものも混じっていた。

「これは……」

　宮木が曖（あい）昧（まい）な笑みを浮かべて日記を返した。

「イカれてると思っただろ」

「お祖母（ばあ）様は闘病なさってたんでしょう。薬の影響でせん妄が起こることもありますから……」

　赤鉛筆で描かれた不気味な絵だ。俺は子どもの頃見た、蛙の薄い腹に血管と内臓が透けている様を思い出した。

「内臓か……？」

　無意識に呟（つぶや）いた言葉に唐原が目を見開いた。

「いや、独り言です」

　彼は口を噤（つぐ）んで俯（うつむ）いた。長い沈黙の後、粘質な視線が俺を刺した。

「俺のこともイカれてると思うかもしれないけどな……」

　唐原がテーブルの上で指を組んだ。

「俺は子どもの頃、トラックに轢（ひ）かれたことがある。相当マズい状況だったらしい。ずっと昏（こん）睡（すい）状態だった。そのときに夢で……こいつを見たんだ」

　陰（いん）鬱（うつ）な面差しに更に暗い影がさす。

「暗い山道で、辺りが森みたいな木々に覆われた坂を上ってる夢だった。上りきったところに妙な生き物がいたんだ。角の生えた乾いた藁（わら）の塊みたいな生き物だった。そいつには目も鼻も耳もなかった。藁みたいな毛の中央が膨らんでてしきりに動いてた。毛が割れたところに薄く透ける赤いチューブやビニール袋みたいなものがあって、内臓だと思った。そいつには口もないのに、内臓は何か喰（く）ったものを消化するみたいに動いてたんだ」

　唐原は話し終わる前に俺と宮木から目を逸らした。自分が理解されないことを言っている自覚があるのだろう。どんな反応も欲しくないというように伏せた目が淀んでいる。

「村で他にそういう生き物の夢を見たひとはいますか？」

　唐原は首を振った。

「さあな、聞こうと思ったこともない。こんな田舎でおかしい奴だなんて噂が立ったら仕事なんかできない。わかるだろ」

「では、この夢の生き物に心当たりは？」

　唐原は鈍器のような卓上のガラスの灰皿を引き寄せ、煙草を取り出して火をつけた。たゆたう煙が沈黙の底を這（は）う。

「ひと喰った神」

　彼は白い煙を吐くと同時に言った。俺は小さく息を吸う。

「土地の信仰……ですか」

「迷信だとしか思えないだろうな。でも、たぶん俺が見たのがそれだ」

「なぜ、それが唐原さんの夢に出てきたんでしょう」

　宮木の問いに彼は自（じ）嘲（ちよう）するように笑う。

「うちの祖母さんが、そいつに祈ったからだろうな」

　灰がテーブルに落ちて、残った火の粉がニスの塗装を溶かした。

「願い事を叶（かな）えるためにひとを喰う悪神だったが改心した、なんて大噓だ。あの祖母さんの言うことには本当のことなんか何もない。あれは未（いま）だにひとを喰う化け物だ。あの女はそれに祈ったんだよ。孫を助けてくれってな」

　燻（くすぶ）った怒りが低い声に混じるのを感じる。

「唐原さんのお祖母様はひと喰った神に祈って、あなたの命を助けてもらう代わりに、喰われたと？」

「それはおかしいですよ」

　俺の言葉を宮木が遮る。

「お祖母様は病気で亡くなったんでしょう？　それも唐原さんが大きくなってからだいぶ後に。その場で喰い殺された訳でもないのに……」

　宮木はそこまで言って自ら黙りこくった。たぶん俺と同じ推測に辿（たど）り着いたのだろう。俺は代わりに引き継いだ。

「ひとを襲って喰い殺すんじゃない。喰った結果だけを残す。だからひと喰い神じゃなく〝ひと喰った神〟ってことか……」

　唐原は頷（うなず）いた。

「うちの祖母さんはとんでもないものを起こしやがった。俺はあのまま死んでた方がマシだったってのに……」

「そんなこと言ったら駄目ですよ。唐原さん自身には何事もないんでしょう」

　唐原が立ち上がり、徐（おもむろ）にシャツのボタンに手をかけた。啞（あ）然（ぜん）とする俺たちの前で指が上から下までボタンを次々と外していく。

「ちょっと、何してるんですか」

　宮木が止めるより早く、唐原は全てボタンを外し、黒い肌着の裾（すそ）を捲（まく）り上げた。

　俺たちは別の意味で言葉を失った。

「俺の腹には事故のときの傷跡があった。ぐちゃぐちゃだった腹を縫い直した傷だ。最初は縫合痕（こん）だった。でも、それがだんだん変わって」

　肋（あばら）の浮いた薄い腹に傷跡がある。成長によって引き攣（つ）れたり、古くなって変色したりした傷ではない。赤黒い無数の直線が何重にも重なって、網目状の痕（あと）を作っている。内臓を食い破ろうとした獣の鋭い爪に裂かれたような傷だ。

「襲ってくる化け物なら対処しようがある。でも、喰った痕しか残さない、見えない神ならどうすればいい？」

　唐原は光のない瞳（ひとみ）を歪（ゆが）めるように笑った。

「……宮木、山に行くぞ。実態を調査しないと」

　呆（あつ）気（け）にとられていた宮木は小さく息を吸うと、やっと我に返って頷いた。

「山に行くなら、夜になってからにした方がいい」

　アンダーシャツを下ろしてボタンを留めながら唐原は言った。

「どれだけこの村が終わってるかわかるからな」

　窓の外の夕陽は台所に差し込んだ側から黒い闇に変色し、部屋中にひしめく老人の遺物を色濃く縁取った。