一-①
狭い車内にコーヒーの匂いが充満している。
助手席の宮木が半分に割った
「これ、こしあんでした」
「どっちも同じじゃねえのか」
「全然違いますよ。つぶあんがよかったのに」
憤慨したような言い方だった。宮木が手についた餡をウェットティッシュで
領怪神犯に関わるとき、何よりも大事なのはつけ込まれる隙を作らないことだ。弱みや傷や揺らぎのようなものを抱えたまま
「ほとんど客の来ない屋台の代わりに、駅員のひとりでも置けばいいのにな」
「いいじゃないですか、私はこういう楽しみがある場所の方が
「遊びじゃねえぞ。今回の依頼は村の医者のタレコミだ。普通隠しておきたがる話をわざわざ持ってくるってことは、前より更に厄介かもしれない」
入っているものが外からこしあんかつぶあんかわからないだけならまだいい。膨れた小麦粉の腹の中に何も中身が入っていなかったら。今回はそういう話だ。
緑が煙るような木々が
仕切りもろくにない駐車場に車を停めて、俺と宮木はバンを降りる。
「話ではこの山に〝ひと
深緑の葉が覆う
「何でひと喰い神じゃねえんだろうな」
「言い伝えでは、昔は村人の願い事を聞く代わりに、
「善神だったら俺たちが呼ばれてねえよ」
口にしながらも、そうではないということは俺自身がよく知っていた。善悪で判じられるならもっと簡単だ。悪神は是が非でも滅ぼせば済む。だが、人間の物差しで測れないものを無理に破壊するととんでもないことになる。そういう事態も何度か経験した。
病院の名前が白で彫り抜かれた、うがい薬のような茶色のガラス戸が開き、白衣を肩にかけた初老の医者が俺たちを招き入れた。昼休憩の最中なのか院内は静かで、リノリウムの床に反射する蛍光灯の光が廊下を
田舎らしい大らかさと
医者は引き戸を閉め、俺たちにスチール椅子を勧めた。背もたれもない薄いクッションの椅子に腰を下ろして医者と向かい合うと、患者になったような気分になる。
「本来は患者さんの個人情報なのでお見せできないんですが、今回は特別な措置ということで……」
医者は棚から紙束がはみ出した分厚いファイルを取り出し、机に置いた。
「うちで亡くなった方の記録です」
「拝見します」
ファイルを開くと黄ばんだ
「これはその、どういう……」
医者に解説を求めようと顔を上げかけたとき、ノートに挟まれた一枚の写真が目に飛び込んできて俺は息を
白いアーチの門が幾重にも並んでいるように見えた。弧を描く
再び視線を落とすと、アーチに見えた
肋骨の中に収められているはずの内臓が皆無だ。骨と骨の間に張っているはずの筋組織すらない。丁寧に肉をねぶり取られたフライドチキンの骨を想像させた。
「内臓が……」
「そうです」
俺の声に医者は
「二年ほど前からこの村で亡くなった方に起こる事象です。生きている間は何の問題もないんです。ただ仏さんを開腹すると、あるはずの内臓がごっそりなくなっているんですよ。死後間もなく解剖を行ったときもそうですから、腐敗や微生物では説明がつきません」
「内臓だけを溶かす寄生虫ですとか……」
口を挟んだ宮木に医者は首を振る。
「内臓の大部分を失っていて何の自覚症状もないのは考えられません。発端となった
「生きている間あったはずの内臓が死んだ途端消えるのか……」
俺はファイルを閉じた。
「警察には最初臓器売買を疑われましたよ。ご遺族の方が証言してくださって事なきを得ましたが」
医者は
「よく飯を食った後で死体の写真を見て平気だな」
「それとこれとはあまり関係ありませんから」
「俺より肝が据わってるよ」
宮木は怪異に対して驚くことや不安がることはあっても、逃げたり手に負えないほど取り乱したりはしない。この若さでどうやって身に付けた度胸だろうと思わなくもない。
カルテや解剖結果の写真をカメラに収めてから病院を出ようとした矢先、見送りについてきた医者を看護師が呼び止めた。
「唐原さんのお孫さん、また来てますよ」
病院から出た俺たちが近づいても男は気に留める様子もなかった。
「私たちの車がどうかしましたか?」
宮木が愛想笑いを浮かべると男は視線だけ動かした。猫背で
「東京の、ナンバーだな……」
「何でこんな
俺が何か言う前に宮木が前に進み出ている。止める暇もなかった。
「この村で起こっている事件について調査に来ました。唐原さんですよね? 何かご存知でしたらお聞かせ願えますか」
有無を言わせない宮木の笑顔に男がたじろいだ。
昼間にもかかわらず夜半のように薄暗い山道を歩きながら、唐原は二十四歳で、東京にいたが体調を崩して辞職し、今は故郷のこの村に戻って旅館で働いていると話した。笑顔が想像できないこの男が接客業というのが信じ難かった。
「旅館だけど、観光に来るところでもないから、奇特な営業マンか安い合宿所を探してる学生くらいしか来ないけどな……ここの人間じゃないのと顔を合わせられるだけでいい……」
唐原は唇に煙草を押し当てて火をつけた。
「唐原さんがこの村に戻られたのはいつのことですか?」
隣を歩く宮木が煙を
「
唐原は煙を吐いて
「聞きたいのはうちの祖母さんのことか?」
「それ以外にも知ってることがあれば」
俺が言うと男は
「外の人間が調べて得のあるもんじゃない。第一ここの奴らの自業自得だからな」
問い返そうとしたとき、小さな鈴の音が聞こえた。唐原が足を止める。山道を取り巻く木々の間からひっつめ髪の三十代くらいの女が飛び出してきた。
唐原は鋭い視線で女を見る。女は慌てて
「どうも……」
毛玉のついたトレーナーのポケットに鍵を押し込み、女は逃げるように山道を駆けていった。女が出てきた方には密集した木々にわずかな隙間があり、削り取られた傷跡に似た山へと続く獣道があった。その奥に、緑がかった黒の葉に埋もれるように赤の鳥居が浮かび上がっていた。
「
唐原は足元に吸殻を捨て
「うちに来るなら祖母さんの遺品を見せる」
紙巻が破れて中身の葉を
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