一緒の時間(花梨と志真⑤)

胡桃ゆず

二人の時間の形は。

 午後になって、冷たい雨が降り出した。傘をさしていても、コートの肩は濡れてしまう。余計に、芯から冷えて来る。

 はぁ、と、息を吐くと、白く広がる。

 ふいに、ちらちらと視界を過って行く、白いもの。 雪だ。 傘に当たる雨の音が変わっていたことに、その時気付く。 コートの肩に当たっては、すぐに溶けていった。

 わりと雪が珍しいところで育った花梨は、雪が降り出すとなんだか心が浮き立ってくる。


 さあ、早く行こう。


 ほんの少し、歩く速度を速めた。

 仕事帰りに、喫茶店に寄って、コーヒーを一杯飲んで行く。お店に志真がいる時だけだけれど。

 それが、花梨の日常だった。こういう、雪が降り出した日でも。


 今日もお店に入ると、聞き慣れた声が迎えてくれる。


「いらっしゃいませ……ああ、花梨」

「いらっしゃいましたよ」

「なんだそれ」


 ははは、と、志真は小さく笑う。お店の中の暖かさとの相乗効果で、ほっと、気も緩みそうになった。


「うー、お店の中あったかい」

「外寒くなったもんね」

「雪降り出したよ」


 花梨の言葉に、志真は窓の外に目をやった。上から下へ、チラチラ過ぎて行く無数の小さな白い影を見て、あ、本当だ、と呟く。

 コートを脱いだ花梨は、鞄と一緒に足元の荷物置きの籠の中に入れる。

 どちらかと言えば、暑いよりは寒い方が得意であるはずの花梨も、縮こまってしまう寒さに、打撃がないこともない。

 あったかいコーヒーで、芯から暖まろう。


「今日はブレンドコーヒーをお願いします」

「かしこまりました」


 待っている間に、何気なく店内を見ていると、一つのテーブルで向かい合って、静かに読書をしている若い男女二人がいる。何か感想を言い合ったりもせず、お互いにただ黙々と本を読む。そんな静かな時間が、そこには流れていた。

 でも多分、これが『二人の時間』の過ごし方なのだろう。

 一見それぞれ別々の世界に浸っているように見えて、でも、同じ時間を過ごしている。決して、相手を置き去りにはしていない。そういう了解が、そこにはあるのだと、なんとなく見ていてわかる。


 誰が何と言おうと、二人の時間は、合っている。


 志真が淹れているコーヒーの香りが漂ってきて、なんとなく胸のどこかがくすぐったくなるような感覚。


 二人で一緒の時間を、どう過ごすか。


 そういえば、花梨は、わりと真剣に、時間を無駄にしないように、一分一秒でも、どうすれば素敵な時間になるかどうかを考えていたこともあった。会える時間で、素敵な思い出をいっぱい作ろう、だなんて。

 でも、いつの間にかそんな気持ちが、まったく別のものに変化していた。

 一緒に何かをする、というだけじゃなくて、それぞれ好きなことをして過ごす時間、というのも、ごく当たり前にある。


 この間も、クロスワードパズルに志真が夢中になっている間に、花梨は気になる本の続きを読んだりしていたし。会話は、時々ヒントがわからない志真に助言を求められて答えるとか、そのくらい。

 そんな時間に意味がないとか、そう思わなくなったきっかけも、確かにある。

 それは、よく覚えている。


* * *


 会う約束をしていても、タイミングが悪いこともある。

 花梨は趣味で時折ハンドメイドのアクセサリーを作っているのだが、知り合いの誕生日にあげたいから作ってくれ、と、親友に頼まれていたのが、仕上がっていなかった。翌日渡すことになっているのに。

 なんやかんやと、会社での仕事が忙しく、あまり作業する時間が取れずにここまで来てしまった。とはいえど、今日頑張れば間に合うであろう。そういう算段はあった。


「そういうことなんです」


 やってきた志真に事情を説明すると、がっかりした様子も、困った様子も、怒った様子も、どれも見せることなく、至極冷静だった。


「でも、頑張れば終わるんだね」

「うん」

「そっか。よかった」

「ごめんね」

「それは、帰って、の、ごめんね?」

「えっと……」


 返答に困ってしまう。本当は、帰ってほしくない。一緒にいたい。だから、断りの連絡をわざとしなかった。そこにいるだけでもいい。でも、結局放っておくことになるなら、帰ってもらった方がいいか。

 そんな我儘な自分に困り果て、答えられずにいると、じゃあ、と、志真の方から切り出した。


「そうじゃないなら、いてもいいかな」

「え?」

「うるさくはしないし。本でも読んでおとなしくしてる」


 それなら帰る、と言うかと思ったのに、志真はずっと静かに読書をしていた。

 どうして、こういう我儘をそこまでわかるのだろう。

 いくら、お互い相手のことを考えていたって、噛み合わないこともあるだろうし、実際自分達だってそういうこともあるが。

 大事なことは、こうして歯車が嚙み合って、わかってくれたな、と思う。自分が志真に対してそれを出来ているのかはわからないのに。

 アクセサリーを作る手を動かしながら、花梨は、ちらりと志真の姿を覗き見る。相変わらず、どうということはない様子で、目と意識は文字に向かっているようだった。

 作業の手を止めて、恐る恐る声をかけてみる。


「あの……」

「何……もしかして、やっぱり、邪魔? いたら気になるかな」

「いや、そうじゃなくて……なんか申し訳なくて」


 志真は少し不思議そうに首を傾げた。


「何で?」

「何でって……」


 上手く説明できない。いろんなことのバランスがこれで取れているのか、自信がないだけだろう。それに、自分の我儘が我儘でないかを確認するのは狡い。

 でも、そういう花梨を甘やかすように、志真はまた噛み合ったような言葉をくれる。


「俺は別にこういう時間も嫌じゃないし、花梨の気配があればいいよ。というか、特に何かするとかじゃなくても、気配を感じたいから、ここにいるんだし」

「気配って……」


 幽霊か何かですか。

 冗談めかしてそんなことを言うのも場違いで。だけど、空気は堅苦しくはならない。


「こういうことがある方が、なんだか一緒にいる時間が普通にあるんだな、って気がするってだけ」

「そう?」

「だって、一緒にいるっていうのは、一緒に何かするってことじゃないでしょ。同じことをしてなくてもそこにいるのが、すぐ隣にいる関係、ってことじゃないの。同じことをしていなきゃ同じ時間を過ごしてないわけじゃないし」


 確かに、その理屈は納得できないでもないが。それでは、一緒にいる意味とは、という屁理屈がどうしても顔を覗かせる。


「そ……そうか……。でも、恋人同士って、そうなっちゃって、ロマンチックさが無くなっちゃうと、なんだか危機感も感じますが」

「そうなんだ」


 特にそんなに関心はなさそうに、志真は本のページを捲った。


「なんかどうでもいい、って感じですね」

「いや、どうでもよくはないけどさ。そういうこともあったらいいね、って思うけど、長い目で見ると、時間をそう貪ろうとしなくたっていいんじゃないかって」


 その言葉は、一瞬では咀嚼できるものではなく、花梨はしばし頭の中でこねくり回してしまった。

 ちょっとずつ噛み砕いて行くと、なんだか、さっきまで自分の喉元に痞えていた、自信の無さや申し訳なさも噛み砕かれて、腑に落ちていく。


「そっか……言いたいことがわからないでもない。多分、ずっと一緒にいるってことは、関係が生活になるってことだよね」

「うん」


 志真はまた、さらりと返事をする。

 自分で言ってから花梨は気が付いたが、わりととんでもない発言をしてしまったのではないか。でも、不思議と大袈裟なことにも感じないのも事実で。でもなぜか、急に気まずくなって、視線をパソコンの画面に戻してしまう。


「ずっと、一緒にいる気、あるんだ」

「え、終わること考えて付き合うとかあるの?」

「終わるかどうかを考えるとか、ずっと、を考えるとか、そういうことよりも、こいつは無理かもしれん、とか思ったりすること、あったりしないかな、って」

「あった?」

「いや、ないけど」

「俺もないけど。それなら、いいじゃん」


 ずっと変わらぬ調子で、やっぱり、なんでもないことのように言う志真に、いつの間にか、気まずさや気恥しさはどこかに消えていた。


「うん、よかった」


 ほっとして、テーブルの上に散らばった細かいパーツに、再び向き合う。

 それから、また静かな時間が続いたけれど、ある瞬間、ふと、志真がつぶやいた。


「でも、一緒に何かもしたいから、それを作り終わったらゲームでもする?」

「うん」

「じゃあ、とりあえず頑張って」

「よし、頑張るぞーっ」


 そんな、一見何でもないようなことが、また一つ、二人の形を変えたのが、はっきりわかった瞬間でもあった。


* * *


 ふっと、鼻先に漂って来たコーヒーの香りが、記憶の中に飛んでいた花梨の意識を、そこに戻してくれた。


「はい、ブレンドコーヒーお待たせしました」


 暖かく揺らめく湯気の向こうから、志真の声がする。


「何笑ってるの?」


 そう言われて、花梨は自分が無意識に笑っていることに気が付いた。知らずに緩んでいる頬を引き締めるように、手で吊り上げた。


「ちょっと思い出したから」

「何を?」

「私が友達に頼まれてアクセサリーを作っていた時に、ずっと待っててくれたことあったじゃん」


 記憶を探るように、少し考えていたけれども、そう苦労はせずとも、ちゃんと思い当たったようだった。

 しかも、余計なところまで。


「ああ、あの日、出来上がったのが日付変わってて、花梨は疲れ果ててあのまま眠っちゃったよね」

「うわぁーっ、思い出すんじゃなかった」

「しかも俺、コーヒー淹れたよね」

「そう、コーヒー飲んだのに眠った」

「まあ、集中して頑張ったんだよね」

「おかげで、喜んでもらえたみたいだけど」

「それはよかった」


 そこで、また別の客が店にやってきて、志真は接客に向かった。

 花梨はコーヒーの香りを肺いっぱいに吸い込んで、満たしていく。その香りと一緒に、今日あった良いことも悪いことも、全部飲みこんでしまう。そうすると、心の中の余計なものが、全部頭の中から消えていく感覚。

 頭の中が緩まって、ほっとできる時間だから、ここへ来るのだ。

 一杯分のコーヒーを飲み終わったころ、外を見ると、雪の降り方が本格的になって来ていた。電車が止まらないとも限らないし、そろそろ帰った方がいいだろうか。雨宿りならぬ、雪宿りをする人たちで、徐々に店も混み始めてきたところでもあるし。

 カウンターに戻って来た志真に、花梨は一声かけた。


「もう帰ろうかな」

「そうだね、雪が酷くなる前に帰った方がいいかも」

「志真も気を付けてね」

「うん」

「明日もまた、コーヒー飲みに来るよ」


 別に、約束のつもりもなく、何気なく言った言葉。

 花梨がコートを着ている途中で、横目でこちらを見ながら、志真がぽつりとつぶやいた。


「思い出話といえば……話したことあったっけ」

「何を?」


 思わず、コートのボタンを留める手を止めてしまう。

 志真は、自分から離しを切り出したわりに、少し話し辛そうに、一瞬ためらっていた。不自然な間をおいてから、ゆっくりと話し始める。


「花梨がこの店に通い始めた頃さ、俺もやっぱり来てくれると嬉しかったんだけど、それを言うのもおかしいから言えなくてさ。誰だって頻繁に足を運んでくれるのは嬉しいことだし、でも、それだけじゃないって、自分でもどこかでわかってたから。でも、変だろう。会える、一緒の時間が、コーヒー一杯分だけでさ。帰る時にそうやってコートを着ることが、さよなら、だから、なんか嫌だったんだ。よく来てくれるとはいえ、それが今日で終わりかもしれないし、また、なんてないかもしれないから」

「え……」


 あの頃、志真が何を考えていたかを、知る由もなかったし、本当は、よっぽどのことがない限り花梨が来なくなることもない、というのを、志真も知らなかった。

 何年も経って、こんな何でもないきっかけで、初めて答え合わせがされるとは、思いもしなかった。


「でもさ、バレンタインデーに、凄い解りにくくチョコレートくれたでしょ。その時に、花梨がコートを着ることが、またね、に変わった。一緒の時間が、コーヒー一杯分だけじゃなくなったし。今だって、そう言ってくれたもんね。だから、嫌じゃなくなった」


 ゆっくり花梨がそちらを振り向くと、志真と目が合って、彼はどこか照れくさそうな、柔らかい微笑みを見せた。


「……そんな話初めて聞いたし、こんな帰り際にさらっと話すようなことかな」

「いや、昔の話だから」

「そりゃそうだけど」


 確かに、今のふたりの関係はその時とは形が違い、過ぎた事実でしかない。会うことなんて、当たり前だ。

 でも、心の奥のどこかの方で、当たり前というものが目隠しになっていることに、気づいてしまう。


「もう一回言うけど……明日も来るからね。って、わざわざ言わなくても来るし。でも、言っておかないと、ちゃんと伝わらないかもしれないし」


 一緒に過ごす時間を積み重ねても、すべてが伝わっているわけじゃない。当たり前になっていても、明日はわからないものだ。

 でもこれは、約束ではない。私はそこにいるからね、と、知っていてもらいたいから。ただ一杯コーヒーを飲むだけの時間でも、一緒の時間。お互い好き好きに過ごしていても、一緒の時間。そういうものは、ちゃんとあるから。

 それを、示したい。


「はい、お待ちしています」


 外に出ると、冷たい空気が温まっていた体に突き刺さるようで。無数に降ってくる雪の中を、歩いて帰る。まだ積もってはいないし、もしかしたら、積もらないだろう。

 明日は、どんな日だろう。

 ただ一つ確かなことは、志真が淹れるコーヒーを飲みに、またここに来るということ。約束なんかしなくても。

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一緒の時間(花梨と志真⑤) 胡桃ゆず @yuzu_kurumi

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