愛島家の女達

「ただいまー」

「おかえりー。―――え、純兄?どうしたの、今日部活無かったの?」

「いや、部活は辞めたんだ。今日から帰宅部だな」

「ふーん……って、えぇええええええええ!?」


ソファに寝転がっていた香澄が、俺の言葉に飛び起きる。義理とは言え家族なのだ。純也が今までどれだけの情熱を部活に注いできたかは十分知っている。

だから、特に気にしている様子も無く退部した事を告げた俺に、何があったのかと驚いたのだろう。


「どうしたの純兄、あんな頑張ってたのに」

「色々あってな。前々からこのまま陸上ばっかやってて良いのか、とか考えてた節はあったし、良い機会だから辞めようって」


監督が朱音を抱こうとしていた件については、今のところ誰にも話すつもりは無い。

下手にヤツの弱みを誰かに話してしまえば、逆に失う物の無い無敵状態になり、なりふり構わなくなってしまう危険性があるからだ。


俺の話を聞き、一先ずは信じてくれたような顔を見せる香澄。しかしどこか釈然としていない様子でもあり、唇がどこか拗ねているように尖っていた。


「ま、部活の話はいいさ。俺の問題だし。今はそれよりも腹が減ったな。冷蔵庫のプリン、勝手に食ったりしてねぇだろ?」

「え、アレ純兄のだったの?」

「……その口ぶりは食いやがったなお前」

「いやぁ、無警戒で置きっぱなしだったから、つい」

「つい、じゃねぇ!アレ結構楽しみにしてたんだからなー?」

「名前書いてなかったからしょうがないじゃーん。また買ってきなよ」

「こ、コイツ……」


何とか話は逸らせたようだ。香澄も普段通りの調子に戻ったし、昨日こうなる事を予測してプリンを買っておいて正解だったな。

前までは部活を頑張ってた分バイトに割く時間が無く、月々の小遣いのみが収入源だった純也の財布には少々痛手だったが……必要経費だ。部活もやめたし、寝取られ回避のためにもバイトは始めるから問題無し。


プリンを取られた事に悔しく感じているように振舞うと、香澄が愉快そうに笑う。

人を揶揄うのが趣味な彼女らしい。仮に取られたプリンが本当に俺が食べようと思っていた物だったら、少しキレたかもしれない。食べ物の恨みは恐ろしいという事を知らんのか、コイツは。


「今回は許してやるが、そもそも明確に自分の物って決まって無い物は食うな。俺のかもしれないし、美月姉や母さんの可能性だってあるんだから」

「はいはーい。わかってまーす」

「わかってねぇから食ったんだろ!」


声を荒げても、香澄はソファに寝転び、生返事しか返さない。

足をプラプラと動かして、スマホに夢中になっているようだ。

スカートの癖にそんな動かし方をして大丈夫なのか、と思ったりするが、実際パンツが見えるような事は一切ない。手馴れているな、と感じつつ見ていると、動きがピタリと止まった。

そして、こちらをニヤニヤしながら見つめて来る。


「あっれ~?純兄、どこ見てるの~?」

「ん、あぁ。悪い」

「もぉ。悪い、じゃ無くてどこ見てたかって聞いてるんだけどー?」

「あー、足元?」

「えぇ~?」


なんか凄くニヤニヤとしている。

恐らく、香澄には俺が彼女の油断しきった姿に劣情を覚えたのと勘違いしたのだろう。それをネタにして、俺を揶揄うつもりらしい。

まぁ、凝視してしまったのは事実だ。劣情云々は冤罪だが。


どう弁明するかなぁ、と考えたその時、玄関のドアが開いた音が聞こえた。


「ただいま……あら、純也の靴があるけど、帰ってるの?」

「あぁ、お帰り母さん」

「あっ、お母さんお帰りー。ちょっと聞いてよ、純兄がさー?」

「オイ待てその誤解を母さんに話すのは酷くないか」


※―――


「そう……純也、部活辞めたの」

「バイトとか興味あったし、部内でゴタゴタも起きたし、良い機会かなって。そりゃ、結構悩みはしたけどさ」

「純也がコレって決めた事なら、特に口出しするつもりは無いけど……」


でも意外ね、あんなに夢中になってたのに。

そう呟く母さんの隣では、香澄が改めてこの話題に戻った事で若干の違和感を感じ始めたらしく、眉を寄せている。

でも俺の言った内容は辞める動機としては十二分だし、俺本人が言っている以上「あり得なくない?」ともいえず、悶々としている様子。


「因みに、バイトってどこのバイトするの?」

「無難にコンビニかな」

「えー、一番近いコンビニでもそこそこ遠いじゃん」

「求人出てたのそれくらいだったからさ」


本当はコンビニよりも家から通いやすくて求人出してる職場沢山あるけど、寝取られ回避を考えればコンビニ一択だから仕方ない。

そんな裏事情を彼女達が知るはずも無く、求人情報を特に見ているわけでもない二人は「そうなんだ」という顔をして、手元のコーヒーを飲んだ。

大人ぶってブラックのまま飲んだ香澄が、渋い顔をしている。


「何曜日に出るつもりなの?」

「週二ペースでオッケーって話だし、土日かな。空いて無かったら平日の放課後辺りを少しずつとるイメージ」


実際は取る曜日も取れる曜日もしっかりと確認済みだし決定済みなのだが、それについては黙っておく。

面接受けに行くのは明後日だし。


「ふーん、じゃあ純兄が学校から帰って来る時間、これからずっと早いの?」

「今までよりはな。だからほら、お前の勉強とか、遅い時間に見なくて良くなったぞ」

「おぉー!じゃあ早速教えてもーらおっと」


そう言って席を立ち、教材を取りに行く香澄。

軽快なステップで階段を上る音が聞こえ、つい笑ってしまう。

そんな俺を見て、母さんが柔らかい笑みを浮かべながら呟く。


「仲が良いのね、二人とも」

「家族になって一年経てば、ある程度は仲良くなれるさ。―――それに、父さんが一緒に遊ぶ機会とか、作ってくれたから」


俺の父親。つまり愛島ゆらぎの再婚相手、愛島信人あいしまのぶひと

彼は既に死んでいる。ゲームでは深く言及されなかったが、交通事故というのが純也の記憶からわかった。

彼は再婚相手のゆらぎとその連れ子達に俺が馴染む様にか、或いはその逆か、とにかく家族での行事を考案し、実行した。色んな場所に皆で行って、色んな経験をしてきた。


そのおかげで、俺は香澄や美月姉と仲良くできているし、母さんからも息子として認めてもらえている……と、少なくともそう思っている。

母さんの場合は過去が過去だから、俺に心を開けていなくても無理はないんだけど。


俺の意志に関係なく飛び出した『愛島純也』の言葉に、母さんは微かに目を見開く。

そして儚げに笑い、小さく頷いた。


「純兄ー!これこれ、コレ教えてー!」

「おうおう。逃げねぇからその飛び込むみたいな座り方二度とするな。怪我するから」

「ふふふっ。これじゃ兄妹って言うより、親子ね」

「えー!じゃあ純兄と私の洗濯物分けて洗ってー」

「お前高校生でもその言葉刺さるってコト泣きながら教えてやろうか!?」


※―――


「だからこの場合は、Aはこう思ってたって事に繋がるわけだ」

「えぇー、絶対私が最初に書いたのが合ってるじゃん」

「教科書的にはそうなの。ま、文句があるならいつか自分でそういう物語でも書いてみるんだな」

「面倒臭いじゃん」

「それが面倒くさいなら文句を言うのも面倒くさいはずだぞー」

「ぶー」

「ただいま」


玄関から美月姉の声がする。

理科、算数を終え国語に着手し、登場人物の心情把握でストレスを感じ始めていた香澄は、良い気分転換だと立ち上がり、玄関へ向かった。

それに苦笑いしてから、俺も続く。


「おっかえりー、美月姉」

「お帰り、美月姉。相変わらず遅いな」

「ふふ、意識しないとつい、最終下校時刻まで居残ってしまうんだ。後輩たちにもよく心配されるよ。ところで、純也は今日早かったみたいだけど……何かあったのかい?」

「あぁ、実はさ。部活やめたんだよ、俺」

「……へぇ?それまた、どうして?」


靴を脱ぎながら、興味深そうに俺の顔を覗き込んでくる。

そんな美月姉に、香澄や母さんにしたのと殆ど同じ説明をする。流石に一字一句そのままとはならなかったから、多少ニュアンスが違って聞えた部分があるかもしれないが。

それでも変な疑いをもたれるような理由ではない。敢えて曖昧な言葉を使っている部内でのゴタゴタも、美月姉なら無理矢理聞き出そうとはしないだろう。


俺の考えは正しく、少し意味深げな表情で「そうか」と呟いてから、それ以上追及するような事はなく、リビングへと歩き出した。

その後を、俺と香澄もついて行く。


リビングに戻ると、俺と香澄が勉強している途中から料理をしていた母さんが、出来上がった晩御飯の皿をテーブルに運んでいた。それを見て、香澄はテーブルに放置されていた勉強道具を慌てて片付け始めた。


「お帰りなさい、美月。今日もお疲れ様。先に風呂に入る?」

「ううん。大丈夫だよ。せっかく晩御飯ができたてなら、それを食べてからにしたいし……」

「ん?」

「いや、なんでも」


手伝うよ、と荷物をソファ付近に一度置き、母さんの方へ向かっていく美月姉。

先ほど意味深げな様子で俺を見てきたが、何かあっただろうか。

何か物憂げな顔というか、なんというか……もしかして、部内のゴタゴタで辞めたって言葉から何か誤った推察をして、俺を気遣ってくれているのだろうか。

母さんの次くらいに男嫌いなのに、流石の優しさだ。


「………が正しければ、きっと」

「?どしたの美月姉。なんか耳赤いよ?隠し事?」

「な、なんでもないよ香澄。それよりも私は耳が赤いと隠し事をしている、と判断するに至った経緯を教えて欲しいのだが」

「だって美月姉、ポーカーフェイスは得意だけど耳だけわかりやすいじゃん。嘘ついてる時とか、何か隠してる時とか、いっつも真っ赤だよ?」

「そうか。以後気をつけよう」

「直さないで貰った方が良いんだけどなー、私的には」

「私本人が嫌なんだ。―――あぁ、純也。多分ソレは香澄のだからそっちじゃないよ」

「あ、そうか。ごめんごめん」


和気藹々と会話をしながら料理を並べ、全てが出揃った所で席に着く。

美味しそうな食事の数々に、自然と生唾を呑み込んでしまう。今日は特に運動をしたわけでもないのに、ここまで空腹感を感じさせられるとは。

いただきます、と全員で手を合わせて、各々のペースで食べ始める。しばらく無言が続くが、すぐに香澄が今日学校であったことなんかを母さんに話し、そこから会話が広がっていく。


いつも通りの光景だ。と心のどこかでそう思い、気持ちが安らいでいくのを感じる。

香澄が話題を持ち出し、美月姉が合いの手を入れ、母さんが微笑む。偶に俺も会話に混ざり、最後には皆で笑うのだ。


この幸せな光景は、ストーリーが始まった今、何もせず放置していれば崩壊する事は確定している。

必ず守り抜く。ヒロイン達の為なんて高潔な理由じゃ無い、ただのエゴだけど。絶対に。



それはそれとして、隣に座る美月姉がやけに近かった気がするんだけど、これも部活を辞めた俺を気遣っての行動だったのだろうか。

それとも、別に何かあったのだろうか。これが寝取られに繋がるとかだったら、かなり不味いが………下手に何か言う方が危険だと判断した、という事にしよう。

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