エピローグ
エピローグ
幹線道路沿いのファミリーレストラン。平日の昼時を少しまわった店内は、それなりに混雑し、ドリンクバーに席を立つ人があちこちに見える。お昼ご飯を食べ終わり、この後はママ友とゆっくりお喋りに興じる。そういう雰囲気の女性が多そうだ。隣の四人席からも、三歳くらいの女の子がお母さんと手を繋ぎ、ドリンクバーへと向かっていく。
「アィ、ああぉう——」小さくてぷくぷくした手がわたしの頬を触る。鞄からガーゼのハンカチを取り出して、膝に乗せている可愛い我が子の口元を拭った。
最近のファミレスは離乳食も豊富で、今日は『しらすのリゾット&鳥のホワイトシチュー』なるものを注文した。本当は家で作った離乳食を持ち込みたかった。でも、今日一緒にランチする人はお金に余裕のある人で、なんとなくそれに合わせる形にしてしまった。そんな彼女は約束の時間を三十分過ぎてもやってこない。痺れを切らし、先に注文した離乳食はもう食べ終えてしまった。
——お母さん、怒るかな……。
母はオーガニックな生活をしている。もちろん孫に食べさせる物もできるだけ無添加を好んでいる。でも、それでも、昔よりはだいぶ緩くなった。布オムツじゃなく、紙オムツでもいいというのだから。
去年生まれた我が子は一歳になった。
わたしには一年間の記憶がない。交際していた男性が犯罪に巻き込まれ、殺されたショックと悲しみで記憶がそこで切れたのだと、お医者さんは言った。人の脳はあまりにショックな出来事があると誤作動を起こすことがあるらしい。
わたしが記憶を取り戻したのは、病院のベッドの上だった。それも、東京の。なぜわたしが東京にいたのか。それも記憶がない。
でも——。
記憶は消えているけれど、わたしには分かる。この子は敬太の子供だ。信じられない話だけれど、それしか考えられない。それに、産婦人科の先生が言っていた。
——この子は生後二か月くらい発達していますよ。
十月十日に二ヶ月を足して、約一年。計算的にも、敬太と最後に交わった頃。そのすぐ後で敬太は一家惨殺事件に遭ってしまった。敬太。今でも思い出す。敬太にとってわたしは都合のいい女だと分かっていながらも、敬太に嵌り、抜け出せない自分がいた。
「アィ、アィ、あー」
「ごめんごめん、ぼうっとしてたね」
膝に乗せている息子の手を握る。ぷくぷくと柔らかく太った手。可愛い。愛しい。そんな気持ちが湧き上がってくる。大事にしたい、この子を。だからわたしは今、仕事を探している。
実家で三人暮らし。母と娘、そして息子の敬介。三人で生きていくためには母のパート収入だけでは無理がある。だからこうして平日の昼間、ママ友とランチというのも、もうすぐできなくなるだろう。
——ママ友か……。
「ごめんねぇ」と特徴的な声が聞こえ、視線を向ける。京子さんがチャイルドチェアーを腕に持ち、優ちゃんを小脇に抱え歩いてくるのが見えた。亜麻色の髪を上手にコテで巻き、上品なワンピース姿。乙女チックな装いは羨ましいとは思わない。
「待ったでしょ〜、もう本当、ごめんねぇ〜。あ、けいちゃんはもうご飯食べたんだねぇ。ここのしらすリゾット美味しいもんね。うちの子もすごい好きなんだよぉ」
「そうなんですね」と、一応にっこり微笑む。チャイルドシートに優ちゃんを座らせ、「何にしよっかなぁ」とメニュー表を眺め始めた京子さんは、写真に指を当て、「これ美味しいんだよ」とわたしに言う。『サーロインステーキサラダ1580円』。さすが医者の嫁。わたしは680円のサービスランチを頼むつもりだ。
京子さんが呼び鈴を押し、やってきた若い女性の店員にオーダーを伝えてから、「あのねぇ」と、いつものママ友トークが始まった。
ママ友。京子さんのことをそう呼んでいいのかは分からない。でも、京子さんはわたしのことをママ友だと思っているようだ。「子供がいない人には分からないよね〜」が、なぜか口癖の京子さんは、わたしのことをよく誘ってくれる。
京子さんに出会ったのは、生まれたばかりの敬介と実家に住み始め、少し経った頃だった。わたしよりも先に母と知り合いだった京子さんは、敬介を見るなり、「すごくおっきいねー」と言った。「産むの大変だったでしょ?」とも。敬介を生んだ記憶がないわたしは、返答に困り「はい」と答えた。京子さんとは、それからのお付き合いになる。
五歳年下の京子さんは、先輩ママとしてアドバイスをくれるし、たまにこうして、ママ友ランチと称してわたしを家から誘い出してくれる。わたしの数少ない知り合いだ。
「それでねぇ」と京子さんがアニメ声で話し出す。敬介を左右に揺らし機嫌をとりながらいつものように話を聴く。
「美咲さんの通ってた幼稚園って、シュタイナー幼稚園だったんでしょ? だからお家の玄関に手作りの人形があったんだって、あたしね、最近気づいたの。有名な幼稚園だよね〜。昔は高級外車がズラーって幼稚園のお迎えに並んでたって聞いてるよ〜」
「そう、なんですか。すいません、小さい頃だし、覚えてなくて——」
「そうなの〜そうなの〜! まだ先だけど、優が幼稚園に入るならって、いろいろ探してて、それでこないだみつけたんだけどね〜」
「ほら。ここでしょ?」と、スマホ画像を見せられた幼稚園は確かにわたしが通っていた幼稚園だった。薄いピンクの建物。小規模のこの幼稚園は、こだわりが強いお母さんたちが多い。かつてわたしの母がそうだったように。
「ねね、だから美咲さんがけいちゃんを預けるのも、もちろんここだよね〜?」
京子さんの悪意なき質問に、「えっと——」と、言葉に詰まった。わたしが通っていた幼稚園は四歳児からしか入れない。それに、指定の制服に靴に鞄。毎月の保育料も他の幼稚園より高額だ。京子さんはさらに話を進める。
「うちの優の方が学年だと二年上でしょ〜。一年だけでもかぶるよね! ああ〜、手作りの人形に手作りのお菓子。憧れる〜。わたし、すっごく不器用で。それでね、今日お願いしようと思ってたんだ」
「お願い、ですか?」
「そう! 美咲さんのお母さんにお人形の先生をして貰えないかって思って。あのね、わたしフェイスブックで繋がってるママ友と子育てサークルしてるんだけどね、そこでそういう企画をやりたいなーって思ってるんだ。それで中嶋さんに講師を一回お願いしたんだけど、やんわり断られちゃって。だからね、美咲さんからもお母さんに頼んでもらえない?」
母がやんわり断ったなら、可能性はないに等しい。でも、京子さんはさらに話を続けてくる。
「だって、自分のお孫ちゃんもそのうち入る幼稚園でしょ? だから、いつかお人形もまた作るでしょ? もちろん美咲さんも参加して欲しいの! それなら中嶋さん、人形の講師してくれないかなって思って。うふふ。サークルのみんな、驚くと思うな。だって、あの幼稚園の先輩ママが講師だなんて。きっと凄いって言ってくれると思うんだ〜。だから、どうかな?」
嬉しそうにテーブルに身を乗り出す京子さんに悪気はない。どうしたらいいものかと悩んでいると、ブランド物の子供服に身を包んだ優ちゃんが、チャイルドチェアーの上でぐずり出した。
「ああ、もう、ママはお話中なのよ、邪魔しちゃやだ」
京子さんは鞄からカラフルなおしゃぶりを取り出すと、優ちゃんの口に咥えさせた。ジャラジャラと、カラフルなビーズ付きのおしゃぶり。おしゃぶりを口に咥えた優ちゃんは付属品のビーズをにぎにぎしている。口も手も、忙しそうだ。
「これ咥えてる時は静かなのよねぇ〜。それでね——」と、また話が始まり、今度はわたしが「すいません」と声をかけた。
「あの、敬介、ちょっとオムツかな……?」
「それは大変すぐに行ってきてぇ」と、一息に話す京子さんに頭を下げ、ママバッグ片手にトイレに向かう。多分、オムツはまだ大丈夫なはず。それでも、あの雰囲気はちょっと無理だなと思った。
ケミカルな臭いが充満する女子トイレ。せっかく来たならばと、オムツ変え用の台を壁から外し、その上に敬介を寝かせる。くんくん。鼻先をお尻に近づけるけれど、匂いはやっぱりしなかった。「ごめんねぇ」と抱き上げるとずしっと重い。そう言えば最近また体重が増えた。同じ月齢の子供の二倍。敬太も背が高かったから遺伝なのか。健康優良児。そう思えば気も楽か——。
「ついでだし、わたしも行っておこうかな」
あの席に戻ってまたマシンガントークを聞くのは疲れる。それに、せっかくトイレに来たならばと、オムツ変え用の台を壁にしまい、敬介を連れて個室に入る。チャイルドチェアーにギリギリサイズの敬介を座らせ、自分もズボンごと下着を脱ぎ便座に腰を下ろす。
「ちょっと待っててね、すぐ終わるからね」と声をかけていると、誰かが女子トイレに入ってくる気配がした。若い子だろうか。大きな声で一方的に話をしている女性の声がする。
「なんでもね、公衆電話で——呼び出して——、その後——、ハッピーになれるとかなんだとか書いてあって——。もう、信じてないな、その顔は。ちょい待ち、今スマホにその人のSNS出すから。どっからみても高級そうなホテルのビュッフェ、レインボーブリッジを眺めながらのクルージングパーティ、南国リゾートの砂浜でハワイアンブルーのカクテルドリンク! 凄くない?」
——確かに。それは凄いリッチな人のSNS。わたしには一生縁のない世界だ。
「ずるいよね、独り占めしようだなんて。あたしならさ、みんなに話して広めてあげるな。だからあたし、めっちゃ探したんだよね。元ネタ。だからあたし、やろうと思ってるんだ」
——へえ、投資か何かの話かな。最近の若い子って凄いな。全然わかんないや。
そう思いながら聞いていると、チャイルドチェアーが窮屈なのか、敬介がもぞもぞ足を動かし始めた。「はいはい、もうすぐだよ〜」と小さな声で話しかけ、するものをして拭くものを拭き、履くものを履く。
扉の向こう。声はまだ聞こえている。どうやら化粧直しをするためにトイレに立ち寄ったらしい。
「それで、こんな都会でも田舎でもない街とっとと抜け出して、東京で華やかに生きるんだ。お金持ちの彼氏とか見つけて、六本木とかの高級タワマンに住んで。一生幸せに暮らそうと思うんだよね〜。ふふふっ、楽しみ楽しみ」
——都会に憧れるなんて、若いな。
わたしは都会に憧れはない。この普通の街で、普通の家で、普通に子育てをして、それで十分幸せだ。
敬介を抱き上げ、洗浄ボタンを押すと扉を開けて外に出た。今時のあざと可愛い洋服。二人組の若い女性はファンデーションを塗りながらまだ話を続けている。その横で敬介を小脇に抱えて手を洗う。敬介はかなりの重さで腰にくる。抱え直そうとして、思わず「ヨイショ」と声が漏れた。わたしもおばさんになったものだと、つい鏡を見る。
「それに公衆電話も見つけたんだ」
「へえ」と、聞き役の女性が驚いた顔をしたのが、鏡ごしに見えた。わたしはハンカチを取り出しながら、——そういえば小学校の近くで緑の公衆電話を見た気がする——なんてことを考えていた。聞き役だった女性が「いまどきあるんだ」と言っている。それを聞いて思い出した。公衆電話は独立した電波で、災害時にも使えることを。だから、公衆電話は決してなくならない、らしい。
ハンカチをポケットに押し込んで、「けいちゃんお待たせ」と、可愛い息子に声をかけながらトイレのドアを押す。トイレを出ていくわたしの背後で「今日の夜にやってみるつもり!」と、嬉しそうに話す女性の声が聞こえた。
—— 了 ——
公衆伝播の太郎くん 和響 @kazuchiai
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